AFFIXTUER
■聖暦８０３年、帝都・黒百合劇場
穏やかな調べが朝日が差し込む劇場を満たしている。
公演スケジュールもない時間帯。この劇場では申し込めば先着で演奏などが出来るフリータイムになっていた。
この時間は入場料も無料になっていて、子供達や引退した老人達が多少席を埋めている。
ワイワイガヤガヤとウワサ話をしたり走り回る子供たちも毎日決まって最後に演奏されるその調べを聞くと不思議と静かに席につくのだった。
最後の旋律が流れ終わる時には観客は不思議と落ち着いた気分になる。
普通なら良い演奏の後には熱狂した拍手喝采が行われるものだが、観客はまるで眠りから覚めて行くような穏やかな気分にひたり余韻を楽しんでいた。
演奏者はみなの穏やかな顔を見るとやさしく微笑み一礼をして演台を降りていく。
「今日もありがとう、お母様」
毎日の日課の朝の演奏も無事に終わると、あたしはいつものように手に持つバイオリンにお礼を言います。
『聖霊の朝露』、そう呼ばれるこのバイオリンはあたしの宝物です。
肖像画でしか見た記憶のない、お母様の形見だから。
「お前ならこれを弾けるかもしれんな」
６歳の時に音楽が好きだったあたしにお父様が手渡したのはこの古いバイオリンでした。
「ナルリィーナはどうも手先が不器用でうまく弾けなかった。ガルゼリッタはあの様子ではこれを弾こうとは思うまい」
お父様は真面目な顔で言いました。
「お前の母は…これをうまく弾いたものだった。皇帝陛下の御前で弾く栄誉を与えられたぐらいだ」
不思議な何かを遠くに見つめているような目でお父様は話を続けました。
「なんとも不思議な音を響かせるのだよ。これはな『聖霊の朝露』と言われる昔からテンオレン家に伝わるものだ。
これを弾く人間がいないというのはまったく勿体無い事なのだよ。ルゥナリア、弾いてみせてくれないか？」
手に乗るバイオリンは不思議な感じがしました。まるで何かに柔らかいものに包まれているかの様に。
ナル姉様に抱きしめてもらった時の様に落ち着いていく気持ちに、あたしはバイオリンをお母様の様に思いました。
「はい、頑張ります。お父様」
いつもはもっとハッキリと喋るようにと怒るお父様も、その日はなぜだか優しい目であたしの頭を撫でたのでした。
「ルゥナリア様、本日のお仕事はいかがなさいましょうか？」
あたしは老執事の声で我に返りました。（がんばらなくっちゃ…）心の中で自分を叱咤激励します…。
「今日のスケジュールは…」
「劇場の来々月のスケジュール調整と新しい一般棟の入居者の面接です」
老執事はあたしの言葉を遮ってハキハキと聞きたい事を答えてくれます。
あたしには全部言わなくても分かってくれる老執事はありがたい存在でした。
「それなら昼食前に入居者の方とお会いします。お食事をご一緒するかもしれませんから用意をお願いします」
あたしは一息いれてから待っている老執事に顔を向けます。
「今から着替えてすぐに劇場管理部に顔を出します。なにあ問題があるならそこで教えて下さいと伝えて下さい」
復唱すると老執事はすぐさま去っていきました。
楽器職人にバイオリンを手渡して手入れを任せるとあたしは劇場にもある自室へ戻りました。
「ふぅ…」
バイオリンを弾いている間は何も考えないでただバイオリンの音だけがあたしを支配してくれる。
嫌な事もなにもかもが融けていくただ穏やかなぬくもりの中にいれるのに。
現実はただ幸せなだけではなくて、あたしは…、だけれども…。
「…ナル姉様……あたしは…わがまま…です…か？」
テンオレン家の当主として宮殿や社交界にいるナル姉様の方があたしよりどれだけ大変かはよく分かっています。
妹のルゼだって、黒百合騎士団の将軍で頑張っているのに…、あたしの大変さなどは二人に比べれば大した事がないって…。
でも、でも、あたしはそんなに上手ではないけれど、あのバイオリンを一日中弾いていられたらと…思わずにいられないのです。
「頑張らなくっちゃ…みんなで幸せになる為に…」
そう、逃げてしまってもその先には何もないのは分かっているんです。
バイオリンを弾いているだけでは生きていけないって。
頑張らないとナル姉様もルゼもみんな今より大変になるって。
それに、二人の笑顔が見れなくなる方があたしには辛いのだって分かってるんです。
「頑張らなくっちゃ」
あたしは自分に言い聞かせると仕事に行く為に着替えを始めました。
＜終わり＞
■キャスティング・リスト
ルゥナリア・テンオレン／ＰＣ／テンオレン家次女（１７歳）
音楽を愛するおとなしい少女。ガルゼッタの双子の姉。愛称：ルゥ。生来内気で大人しい性格であり現状の仕事に疲れている。
当主である姉ナルリィーナと黒百合騎士団将軍をつとめる妹ガルゼリッタがいる。