◆帝国暦８０１年 ８月 イリヤ１３歳の時 帝都にて
「御主人様、お風呂の用意が整いました」
「ああ、分かった」
イリヤは読みかけていた本を閉じ、風呂場に向かう。脱衣所で服を脱ぎ、浴室に入る。仮にも貴族の一員で有るイリヤのお風呂場はかなり広い。浴槽まで歩き、そこからお湯を桶に組んで、自分の身体に掛けた。
「熱っ！ 何だこれは！」
お湯は物凄く熱かった。火傷しそうな程だ。イリヤは腰にタオルを巻き付け、お風呂場のドアを開け、人を呼ぶ。その声を聞き付け、作業服を着た人が駆け付けてきた。その人を見て、イリヤは目を見開く。
「ミルク、何やってるんだ？」
呆れながらも、イリヤは聞く。そして首を傾げる。その人は、イリヤの従兄妹のミルクだったのだ。ミルクはイリヤの母方の従兄妹だ。養子で主人が死んだ後家を継いだイリヤとは家系が違うが、ミルクも一応貴族の娘である。それもイリヤが子爵なら、ミルクはそれよりも遥かに位の高い伯爵令嬢だ。こんな所で使用人の真似などしていていい筈はない。
だがミルクはそんなイリヤの気持も知らず、のんびりと言う。
「何って、イリヤのお風呂を湧かしていたのですよ」
イリヤは額に手をやった。
「何故、お前がそんなことする必要があるんだ？ お前は貴族なんだから、お風呂から俺が出てくるのを待ってれば良かっただろ？」
「だって、そうすればイリヤが喜んでくれると思ったのです。どうです、喜んでいただけましたか？」
イリヤは何かを振払うようにブンブンと首を振る。それからミルクの肩に手を置き、ミルクを抱き寄せ、背中をポンポンと叩く。
「頼むからミルク、自分の立場というものをわきまえてくれ。まだ俺の前だけならいいが、他の貴族の前でそんなことをすると、嘗められるだけなんだ」
「分りましたです、イリヤ」
イリヤの話が分かったのか、ミルクはニッコリ笑う。だが、ミルクは今まで幾らイリヤがこういう忠告をしても聞いてくれなかった。さらにイリヤは言い募ろうとする。その時、執事がやってくる。
「御主人様、風呂釜が大変なことになってます」
「どうした？」
「ええ、ミルク様の使い方に風呂釜が耐えられなかったようです。ついさっき、風呂釜は壊れてしまいました」
「もういい、下がれ」
イリヤは腕をサッと薙ぎ払い、執事を退場させた。それからバスロープを身に付けると、風呂場を出ようとする。それをミルクがバスローブを引っ張って引き止める。
「どうした、ミルク？」
「イリヤ、いい考えがあるんです」
ミルクは目をキラキラ輝かせた。
「あのですね、この帝都に温泉が出来たらしいですって。今日はそこに行ってみませんか？」
「今からか？」
イリヤがそう聞き返すと、ミルクは驚いたように、目をわなわなと見開く。
「まあ、イリヤってば、今日はお風呂に入らないつもりですか？ それは不潔です！ イリヤがそんな不潔な方だとは思わなかったです！」
「分かった、分かった、その温泉に行けばいいんだろ？」
「はい」
ミルクは喜色満面に頷く。イリヤはこっそり、やれやれと息を吐き出した。結局イリヤは、このテンポのズレた従兄妹のミルクに弱いのであった。
イリヤ御一行は温泉に向かって歩いていた。イリヤは自分の後方を歩いてくる集団に目を向け、ついに我慢しきれず、ミルクに尋ねる。
「なあ、ミルク、何でこいつらまで温泉に行くのに一緒なんだ？」
「だって大勢の方が楽しいと思いましたから。イリヤも嬉しいでしょう？」
「なあに、細かいこと気にしてるのよ。あたしが一緒に付いて行ってあげてるんだから、有り難く思ってよ」
クミがばんばんと背中を叩く。
「何で私まで、お前らに付き合わなければならないんだ？」
シルヴィアが皮肉のきいた毒舌を吐くと、ノリオはまあまあとなだめた。
「そんなこと言いつつも、シルヴィア、温泉に行くと言ったら、喜んでついてきたノリ。シルヴィアも強情這ってないで、一緒に楽しもうノリ！」
（俺はお笑い四天王のお守役じゃないんだ）
四天王とはノリオが結成した組織の名前である。メンバーはミルクとクミとシルヴィアとノリオだ。何をする組織なのか、イリヤにはさっぱり分らないが、とにかく四天王と名前だけは偉そうである。イリヤは絶対零度の瞳で、シルヴィア以外の四天王を眺めた。四天王で唯一まともなシルヴィアを除いて、他の四天王など、今の状況ではイリヤの心の平安を乱す存在でしかない。
「何、不機嫌な顔をしているのよ、イリヤ？」
クミがイリヤの頬をつっつく。イリヤはクミの手をそっとさり気なく振払った。
「別に何でもねぇよ」
プイッとクミから顔を背ける。そしてイリヤが黙々と、四天王達がワイワイと騒いで歩いているうちに、温泉を経営している店まで来た。
「わーっ、ここよ、ここよ」
「見れば分かる」
騒ぐクミを、シルヴィアが制する。そこの店は意外と地味な作りだった。ミルクに教えて貰わなければ、そこに温泉があるとは気付かずに通り過ぎてしまいそうだ。
「じゃあ、わたし達はこっちですので、後で落ち合いましょう」
ミルクはそう言って、女湯ののれんを潜る。それに続いて、クミ、シルヴィア、ノリオの順でのれんを潜ろうとした。
シルヴィアが立ち止まる。
「おい、待て！」
「何だノリ？ さあ、早く一緒にお風呂に入ろうノリ？」
ノリオは爽やかにそう言って、シルヴィアを奥へと促した。シルヴィアはノリオに鋭い目を向ける。
「男湯はあっちだ」
「何だ、そんなこと気にしていたノリか。別に恥ずかしがることはないノリ。皆、一緒の方が楽しいノリ。さあ、一緒に入ろうノリ」
ノリオは図々しくもシルヴィアを押し退けて中に入ろうとする。その時、クミがクスクス笑いながら、声を掛けた。
「馬鹿ね、ノリ、温泉と行ったら、混浴に決まってるじゃないの。ここで無理して一緒に中に入らなくても、中で繋がっているわよ」
「おお、そうだったノリか。それは済まなかったノリ」
ノリオはくるりと踵を返し、イリヤの肩に馴れ馴れしく手を乗せた。
「さあ、行こうノリ。イリヤ」
イリヤはさり気なくノリオの手をのけると、冷ややかな目をノリオに向けた。ノリオは気にせず、ルンルン顔で温泉に入って行く。
シルヴィアはジロリとクミを睨んで、皮肉を言った。
「知らなかったな、ここの温泉が混浴だったとは？」
ミルクものほほんという。
「まあ、混浴でしたの。それは知らなかったです。で、混浴って何ですか？」
その質問に皆、ずっこけた。シルヴィアが頭を押さえながら尋ねる。
「あのな、ミルク。それは本気か？」
「はい」
ミルクは屈託なしに返事した。クミは話を元にもどす。
「ともかく、ああ言わなきゃ、入り口の前でぎゃあぎゃあ争いになっていたでしょ。嘘も方便。事体を無事におさめてあげたのだから、あたしに感謝しなさいよね」
「いつまでも立ち話していても仕方ないだろう。行くぞ」
イリヤはそう言って店に入っていった。
そこの温泉はまさにお風呂屋というのが相応しい作りだった。番頭にイリヤはお金を払う。番頭は綺麗な２０代くらいの女の人だった。イリヤは脱衣所で服を脱ぎ、浴室に入っていった。
男湯と女湯は薄い壁一枚で隔てられていた。女湯で騒いでいる声が、男湯まで伝わってくる。
「騙されたノリ」
ノリオは愚痴愚痴と文句を言っていた。浴室の床でののじなんか書いている。イリヤは無視して身体を洗う。
「男と一緒だなんてつまらないノリ。目の毒ノリ。でも、大丈夫こんなこともあろうと……」
気付くと、ノリオはいつのまにか持参したノミで、壁を削り、必死で覗き穴を空けようとしていた。
「なかなかこの壁削れないノリ」
イリヤは慌ててノリオの首根っこを掴み、凄む。
「てめぇ、シルヴィアの裸を見たら、殺すぞ！」
しかしノリオは全然イリヤのことを怖がる様子はない。逆にニヤニヤ笑い、何やら面白がっている様子すらある。
「へえー、イリヤ、シルヴィアのことが好きノリか？」
ドキリ、心臓が少し高鳴る。（好き？ 俺はシルヴィアのことが好きなのか？）。
だが、イリヤは直ぐにその感情を否定した。人を好きになる感情など、所詮はまやかしだ。人間は１人でも生きていけるものなのだ。
イリヤはノリオを壁に叩き付けた。そして馬鹿にしたように鼻を鳴らす。
「フン、覚えておけ、ノリオ！ 俺はシルヴィアのことは好きでない！ ただ、あいつはからかうと反応が面白いから、ちょっかいを出してみているだけだ」
その時、女湯の方から悲鳴が聞こえた。
「きゃあ」
「何事ノリ！」
ノリオは壁を体当たりして突き破り、女湯へと堂々と侵入する。侵入したノリオを見て、余計悲鳴は大きくなる。しかし、今、ノリオのことをとがめている余裕はイリヤにはなかった。
（シルヴィア！？）
イリヤも心の中で叫び声をあげながら、夢中で女湯に入って行った。
壁の残骸をかき分けると、湯気の向こうには、タオルを巻き付けただけの裸の女性達がいた。そしてそのさらに向こうには、何やら、黒い毛だらけの物体が存在している。熊だ。ノリオは熊と女性達の間に割って入り、威嚇するようにノミを構えた。イリヤは女性達へくまなく視線を彷徨わせる。ミルクも、クミも、シルヴィアも無事だった。
「シルヴィア！」
イリヤはシルヴィアの元に真直ぐ駆け寄る。
「シルヴィア大丈夫か？」
イリヤはシルヴィアを夢中で抱き締めた。まるでそうしないと、シルヴィアの存在が何処かに消えてしまうかのように。シルヴィアはもぞもぞとイリヤの腕の中でもがく。
「こら放せ！ 馬鹿もの、どさくさにまぎれて何をする！」
「わ、わりぃ……」
イリヤは慌ててシルヴィアから身体を放した。そして間近でシルヴィアの全身を見る。お湯でほんのりとピンク色に染まった肌。濡れた黒髪。タオルに隠された裸体を見ていると、ついさっき抱き締めた時の感触が蘇ってくる。その手の経験は豊富なイリヤのこと、女性の裸など見なれている筈なのに、何故かシルヴィアのことを見ていると顔が赤くなってくる。ほのかに赤くなった顔を見られぬように顔を背けた。
クミからヒステリックな罵声が飛んでくる。
「そんなことしている場合じゃないでしょ！？ イリヤ、あんたもあたしの家臣なら、この状況、何とかしなさい！」
その言葉がイリヤに冷静さを蘇らせた。イリヤは顔を引き締め、熊に向き直る。
「俺が盾になる。その間に、皆を誘導して外に逃がすんだ」
その言葉を聞き付けたシルヴィアはてきぱきと短く返事した。
「分かった」
イリヤはゆっくり熊に近付いた。熊は僅かにイリヤの方に気を向ける。その隙をついて、ノリオが熊に飛びかかった。
（無謀だ！）
イリヤはそう思ったものの、何と熊はいとも容易くノリオに押し倒された。ノリオはノミを持った手を振り上げる。その時、熊が悲鳴をあげた。
「や、やめてくれ！」
ノリオの手がピタッと止まる。ノリオは恐る恐る熊の頭に手を伸ばすと、熊の頭を外した。すると、何と中から、人間の頭が出て来たのだ。
イリヤ達は、熊の毛皮の中に入っていた男を番頭に突き出した。どうやら番頭が、ここの温泉の女主人らしい。女主人は男に心当たりがあるようだ。イリヤ達がしつこく訪ねると、渋々ながら、事情を話す為に重い口を開く。
どうやらここの温泉は地上げにあっているらしかった。ロスタリオン商会というところが、ここの土地を買収しようとしているらしい。だが、女主人はそれを断った。しかし幾ら断っても、しつこく土地を売るように迫って来て、それだけでなく色々な嫌がらせをするようになったらしい。
「酷い奴らノリ。そんな奴ら、拙者が叩き斬ってくれるノリ！」
ノリオはギラッと物騒に瞳を光らせる。それをまあまあとミルクが止める。
「暴力はいけません、ノリオ様。ここは話し合いで決着を付けるべきだと思います」
クミがミルクに言う。
「クスクス、いいのよ、ミルク。そんな悪人どもはノリオの刀の錆にしてしまえばいいのよ。悪人なんか生かしておいたって、世の中の為にならないのだから」
ノリオはさらに言い募る。
「そうだノリ、ミルク。世の中には話して分かる相手と分からない相手がいるノリ」
「まあ、確かに話しても分からない馬鹿は、何処にでもいるがな……」
シルヴィアは腕を組み、壁にもたれ掛かりつつも、チラリとだけノリオの方を見て、ぼそりと呟いた。
皆の会話を聞いていて、イリヤは笑った。
「単純だな」
ノリオはムッと来たようにイリヤに突っかかる。
「何がおかしいノリ！」
「いや、お前らの話を聞いていると、あまりにも単純過ぎて、おかしかったのさ。力押しで何もかも解決すると思っているみたいだったからな」
２人の話を聞いて、シルヴィアが皮肉げに割って入った。
「これはおかしなことばを聞いたな。確か、力があれば何でも解決する、と言うのは、お前の日頃の口癖じゃなかったかな？」
「ああ、力があれば、何でも出来る。だがな、力にも使い方というのがあるのさ。お前らは力の使い道が分かってない！」
２人の話を聞いていて、ミルクが悲しそうに割って入る。
「そんなことないです。力が全てだなんて！ 力以外にも大切なものは沢山あります。例えば、仲間に対する信頼とか……」
「くっはっはっは！ 笑わせるな、ミルク！ 信頼さえあれば何かが出来るというのか！ ならば見せてもらおう。その信頼とやらで、この温泉を救うことが出来るかどうか！ もしお前の言う信頼とやらで、俺の言う力以上の働きをしてみせることが出来たのなら、俺はその信頼というものを信じてもいい！」
シルヴィアは鋭い眼光でイリヤの顔を凝視しながら、尋ねる。
「本当だな？」
「ああ、やれるものなら、やってみろ。俺は俺のやり方でやる！」
イリヤは踵を返した。
「イリヤ！」
ミルクが悲し気な声でイリヤを呼び止めようとしたが、それをシルヴィアが止める。
「放っておけ！ あいつはお前が構う程の価値もない。救いようのない馬鹿だ」
イリヤはその皮肉を黙殺する。そのまま温泉を出ていった。
ミルク達はロスタリオン商会の嫌がらせで、離れて行ったお客を呼び込む為、呼び込みを行っているようだ。ミルクが手書きのチラシを作ってきて、それを皆で配っている。イリヤは温泉を救う為に、部下達にロスタリオン商会のことを色々探るよう命令を出すと、退屈しのぎにミルク達をの様子を見に行った。途中、チラシを配っているシルヴィアと出くわす。シルヴィアの周りには若い女性がキャアキャア群れを成していた。
「相変わらず、モテるな」
イリヤはニッと笑う。シルヴィアはつまらなさそうに言った。
「別に望んでモテている訳ではない」
シルヴィアの周りを取り込むの女性は、近付いてくるイリヤに気付いて、キャアとシルヴィアの傍を離れて行った。遠巻きに、羨望の眼差しで、イリヤとシルヴィアを見つめる。美形のイリヤとシルヴィアが並ぶと、それだけでもう周囲の者は圧倒されてしまうようだった。
シルヴィアはきチラリとイリヤを睨みつける。
「出来れば離れて貰えないか！ ここにいても、お前は退屈だろう。それにお前が近くにいると、邪魔なんだ。ちっとも人が近付いてこない」
「そんな無駄なことは止めて、シルヴィア、俺に付き合わないか？ 近くにいい店を見つけたんだ」
「つまらん冗談は止せ！ 私は今、忙しいのだ」
「まあ、じゃあデートは次の機会に譲るとして、ミルク達はどうした？」
無造作にイリヤはシルヴィアに近寄る。シルヴィアは言い返すかと思ったが、意外にも奇妙な目つきでイリヤのことを見つめていた。
「私には分からんな。お前は本心ではミルクのことを心配だから様子を見に来たくせに、そうでないふりをして。お前も素直じゃないなあ。もっと素直になれ！」
イリヤは唇を歪ませた。シルヴィアを乱暴に壁際に押し付けると、ガンとシルヴィアの顔の脇の壁に手を付いて、寄り掛かる。シルヴィアの顔の近くに寄せる。
「フッ、知った風な口を聞くな。お前に何が分かる？」
「やめておけ、お前が凄んでも恐くないぞ。剣の腕は私の方が上なのだからな」
フンとイリヤは鼻を鳴らす。剣の腕は確かに現段階ではシルヴィアの方が圧倒的にまさっていた。だが、だからと言ってシルヴィアのことを、イリヤは恐れていなかった。
「剣が使えればな。この距離まで接近したら、毒使いの俺なら、お前を殺す方法は何通りでもあるぜ」
「やってみるか？」
シルヴィアは冷静に言い返した。シルヴィアの方もイリヤのことをちっとも恐れていないようだ。２人の間に火花が散る。とその時、イリヤはふいに背後から殺気を感じた。
「危ない！」
イリヤはとっさにシルヴィアを突き飛ばし、自分も脇に逃れる。今までシルヴィアのいた場所に、ナイフが突き刺さる。
「シルヴィア！？」
「ああ、大丈夫だ！」
しかしそう答えるシルヴィアの顔は青い。どうやらイリヤが突き飛ばしたせいで、足首を捻挫したらしかった。イリヤが振り返ると、背後に柄の悪い男が３人立っていた。
「へいへい、坊ちゃん。そこどきな？ 俺達はそこの女に用があるんだ」
「下衆が！」
シルヴィアは吐き捨てる。
イリヤは剣を抜いて構えた。相手は３人、イリヤの腕では少し分が悪い。
（ロスタリオン商会の者か、どうする？ いっそうのこと、シルヴィアのことを見捨てるか？）
男達はシルヴィアに用があるみたいである。イリヤ１人が逃げても後を追いはしないだろう。だが、シルヴィアを見捨てることを考えただけで、イリヤの胸は痛くなった。俺も弱くなったものだな、小娘１人、見殺しに出来ないとはな、とイリヤは内心自分のことを皮肉る。
「行くぞ！」
男達３人が襲い掛かってきた。イリヤは必死で防戦する。しかし、健闘及ばず、徐々に追い詰められていった。
（もう駄目だ！）
イリヤが覚悟を決めた時、シルヴィアが剣を投げた。剣は狙い違わず、襲って来た男達の１人の衣装を縫い止める。男達に動揺が走る。その隙をついて、イリヤは男達の剣を悉く弾き飛ばした。
「覚えてろよ」
男達は去って行く。
イリヤはすかさずシルヴィアの元に駆け寄った。
「大丈夫か？」
「大丈夫……痛っ！」
シルヴィアは無理して立ち上がろうとしたが、直ぐに顔を歪めて、座り混んでしまう。イリヤはシルヴィアに肩を貸した。
「待ってろ！ 今家まで送り届けてやる！」
「だがチラシ……まだ私のノルマ分、配り終えてないんだ……」
「馬鹿！ そんなこと言っている場合か！」
この後に及んでそんなことをいうシルヴィアに、イリヤは心底腹を立てる。だが、シルヴィアはなおも弱々しい声で言い募る。
「だが、ノルマ分の仕事をしないと、皆に迷惑を掛けてしまう」
「分かった、待ってろ！」
イリヤはシルヴィアをゆっくりと下ろした。壁際に座らせる。それからズボンをめくり、傷付いた所に薬を塗りはじめる。
「おい！」
「こらじっとしてろ！ チラシは俺が配ってやる。だから、その前に傷の治療をさせるんだ！」
シルヴィアはじっとイリヤのことを見つめた。どうしようか考えているみたいだった。だが、結局イリヤの言い分を受け入れることにする。
「すまぬ……」
心底申し訳なさそうにうなだれた。イリヤはシルヴィアの顔を真っ向から捕らえ、フッと微笑みを浮かべてみせる。
「違うだろ？ こういう場合は明るく微笑んで有難うというべきだろ？ 美女の微笑みは、それだけで男達のやる気を出させてくれるんだ」
治療を終え、チラシを配り終えると、シルヴィアは一旦仲間達の元に戻ることを主張した。イリヤは直ぐ屋敷に帰って、シルヴィアが屋敷で大人しくしていることを主張したのだが、シルヴィアは頑固にそれを拒否した。１人にしておくわけにもいかず、仕方なくイリヤは皆のいる温泉にシルヴィアを連れて行く。
温泉の前には人だかりが出来ていた。道路に豪華な馬車が止まっている。シルヴィアは表情を険しくした。
「どうした？ 何があったんだ？」
「分からない」
イリヤとシルヴィアは顔を見合わせる。急いで温泉に戻った。
店の中では、でっぷりと太った男と、店の女主人が言い争っていた。どうやら、その太った男がロスタリオン商会の主人であるらしい。男は周りに数名の頑強なボディガードを引き連れていた。温泉の女主人の方にもミルク達が付き添っている。
「こっちには契約書というものがあるんだ。今日からこの温泉は私のものなのだよ」
「どういうこと？」
イリヤとシルヴィアは顔を見合わせる。どうやら今日からこの土地は男のものになってしまったらしい。
「さあ、出てってもらおうか？ ゲヘッ、ゲヘッ」
と、その時、表に場所がもう１台止まった。中から、イリヤの見知った人物が出てくる。
「姉さん……いや、ナルリィーナ！」
中から出てきたのは、イリヤの異母姉弟のナルリィーナだった。ナルリィーナはつかつかと男に近寄る。男は下品な目で、じろじろナルリィーナを眺める。
「いったい、何だ？ お前は？」
ナルリィーナは書状を突き出し、凛とした口調で言った。
「私はテンオレン家当主、ナルリィーナ。この温泉は国が徴集します。部外者は速やかに立ち退きなさい」
「な、何だと」
男は喘ぐ。ナルリィーナの持つ書状を穴の開くまで眺めて、渋々それが本物だと認めた。
「馬鹿な、この開発計画を立てる為に、我が商会が費やした予算を考えたら、破滅だ……」
男は放心状態になりつつも、フラフラと店から出て行く。今度はナルリィーナは放心状態の店の女主人の元に近寄った。
「あなたが、ここの店の主人ですね。お話した通り、今日からこの温泉は国のものです」
「すると私はどうなるのでしょう？」
「安心してください。あなたには温泉の管理をしてもらいます。あなたさえ嫌じゃなければ、幾らでもこの場所にいてください」
「やったあ！」
途端に店に歓声があがる。歓声は、ミルク、クミ、ノリオがあげたものだった。
クミは優越感に浸った目で、イリヤを眺める。
「どお？ これが団結の力よ」
イリヤはフンと鼻で笑う。
「何を言う。ただナルリィーナの家の力を借りただけじゃないか？」
「馬鹿ね、ナルリィーナにはあたし達に力を貸して、何もいいことがないのよ。それなのに力を貸してくれたのは、あたし達を信頼してくれているからだわ」
ナルリィーナはシルヴィアの方を見て、心配そうに顔を曇らせた。
「シルヴィアどうしたのですか？ 一体？」
「ああ、何でもない、ちょっと捻っただけだ」
「まったく、馬鹿ね、シルヴィアったら、また無理したのでしょう？」
そう言いつつ、ナルリィーナはしゃがみこみ、何か大切なものに対するようにシルヴィアの足に手を伸ばす。シルヴィアはナルリィーナに心配かけないように、イリヤから離れた。
「ほら、この通り、立って歩くことも……痛っ！」
シルヴィアはバランスを崩し、倒れる。慌ててナルリィーナが抱きとめる。
イリヤは怒鳴った。
「馬鹿、まだ無理するな！」
ナルリィーナはイリヤに向かって言った。
「イリヤ、シルヴィアを許してあげて。シルヴィアはあたしの為に無理をしたのだから」
「ああ、姉さん……ナルリィーナがそういうのなら……」
何だか面白くない感じがして、イリヤはそっぽを向いた。
（焼ける？ まるで俺がシルヴィアに恋しているみたいじゃないか。まったくそんな訳ないのにな。俺は１人でも生きていける。弱点となりえる好きな人なんて、決して作らない）
ナルリィーナはシルヴィアの傷を見ると、毅然とした態度で言った。
「まあ、大変！ これは酷いわね。シルヴィアはうちに連れて帰ります。うちならイルムがこれくらいの傷直ぐ直してくれるから」
ナルリィーナはシルヴィアに肩を貸して、馬車の方へ向かった。
（待って！）
イリヤはそう叫びたかった。目の前でシルヴィアを連れ浚われることが、胸が張り裂ける程苦しかった。だが、結局、効果的な意見が考えられず、ただ見送るしかなかった。自分の無力さを噛み締めながら……。
（そうさ、俺は人を好きになんかならないんだ……）
自分に言い聞かせるように呟いた。その言葉は、とても虚しかった。
〈おわり〉
◆キャスティングリスト（PCのみ）
イリヤ・グレイザー／１３歳／グレイザー家当主
美貌の少年。何事にも少し冷めた見方をしている。シルヴィアのことが本当に好きなのかは、作者にも分からない。きっと一時の気の迷いでしょう（笑）。
ミルク・レープ／１３歳／四天王の１人
おっとりした天然ボケの女の子。いつもイリヤを困らせてばかりいる。
ノリオ・ゲート／四天王の１人
四天王のリーダー格。しかし実体は皆のおもちゃと化している。
クミ・ナ・タトゥ／１６歳／四天王の１人
貴族になりたいという野望を持つ少女。常にその身から誘惑のホルモンを出している。
シルヴィア・ローザリオン／１３歳／四天王の１人
男装の女剣士。ナルリィーナと何やら妖しい様子（笑）。
ナルリィーナ・テンオレン／１５歳／テンオレン当主
イリヤの異母姉。シルヴィアと何やら妖しい様子……。