誰しも一度は恋という、甘く切ない想いを経験するのではないだろうか？ 当然、初恋というものも……。
それは、近所に住む幼馴染だったり、優しくしてくれた学校の先生だったり、共に学ぶ者だったりと、その状況は色々と異なると思う。
だが、偉人――『英雄』と呼ばれる存在に恋心を抱く事はあまり無いのではないだろうか。
彼らは大抵の場合、すでにこの世の者では無い。『英雄』とは、その者より後の世代がその者自身と成し得た事を忘れない為に、後世まで称えるからこそ生まれる存在だろうから。いくつもの飾り立てた言葉、偉大さを知らしめる為の飛躍しすぎた逸話。それらが空を渡る鳥のように、時から時へと流れ、そしてまた流れるといった具合に……。
もちろん、逸話に違わぬ存在だった者もいただろう。
どちらにしても『英雄』という存在には、成し得た事の偉大さから畏怖や畏敬といった感情を抱いてしまう事が多く、自分が身近な存在になろうなどという思いは浮かびにくいと思う。ましてや、すでに他界している者ならなおさらだろう。
しかし、中にはそんな『英雄』と呼ばれる存在に恋してしまう、風変わりな人間もいた。
これから語られるのは、そんな少年の儚き初恋の物話なのである。
そこには数々の武具が置かれている。刀、剣、鎧、兜、盾など本当に様々な物があり、それらが床に、あるいは壁に調度品の如く存在していた。
一見、武器屋かと思えるその一室は、熔鉱炉や金属を鍛える為の鎚がある事から武器工房だとわかる。そこは、“竜の住まう国”イ―ディス王国内に存在する坑道付近に建てられた、あるドワ―フの工房だった。
そこには二人の人影がある。一人は長身で壮年の男、そしてもう一人はク―ルな印象の少年らしさを覗かせた顔立ちの男の子だ。
壮年の男は、鳶色の髪と瞳、筋骨隆々の逞しき体躯、そして日焼けして浅黒い肌といった風体で、精悍さを感じさせた。軽装ではあるが薄汚れた鎧を纏っていて、額に刻印があるところから、おそらく王国が誇る「刻印の竜騎士」と呼ばれる者の一人だろう。
一方、少年は女性も羨むような綺麗な金髪、吸い込まれそうな蒼き瞳、そして透き通るような白肌を持ち、壮年の男とは対照的に優男といった感じである。黒い長袖のシャツに上から青いジャケットを羽織り、下はジャケットと同色の長ズボンといった服装で、額には真紅のバンダナを捲いている。額に捲いたバンダナから、カッコつけたい年頃だという事が伺えた。
二人は親子とも思える間柄に見えたが、それにしてはあまりに似ていないので義理の親子なのだろう。
何かを待っているらしく、それぞれに時間を潰している様子だった。
「くぅぅぅ〜！ いつ見ても良い女だよなぁ、ジャンヌ様はよぉ！ 今、生きてたらぜってぇにこのタ―ニルの女にするんだけどなぁ……」
タ―ニルと名乗った壮年の男は、無造作に伸ばされた鳶色の長髪をかきむしりながら、髪と同色の瞳で一枚のブロマイドを一心に見つめていた。そのブロマイドには一人の女性の姿があった。
「また始まった……。親父、何ぼやいてるんだよ。いつもジャンヌ、ジャンヌって、死んだ人なんだからしょうがないだろう」
そう言ったのは、キョロキョロと工房内を物珍しそうに見ていた少年だ。養父タ―ニルのぼやきにうんざりした表情を見せていた。
「ガキが生意気言うんじゃねぇ。なんならお前もこっち来て見てみろよ。そしたら、死んだとかなんとかなんて関係無くなるからよ。ほらアシュラス、早くこっち来てみろって！」
アシュラスと呼ばれた少年は、面倒臭そうだったが急かされるままに養父の側に歩み寄り、ブロマイドの女性に視線を注ぐ。
アシュラスは「大した事ないだろ」と思っていた。何故なら、彼はあまり異性を意識した事は無いからだ。ある存在を除いては……。
その存在とは、彼の姉達である。ある経緯から今は離れ離れになっている。しかも、その者達を彼は恨んでもいた。それでも女性と強く意識できるのは彼女達だけだった。ようするにシスコンなのである。そうなったのには幼い頃の家庭の事情が関係しているのだが……。
そんなものだから、アシュラスは姉以外の女性は、「異性」というより「人間」という風な感じで接していた。さすがに裸を見ればドキドキする事もあるが、やはり姉のそれと重ねていたところがあったのだ(かなり重度のシスコンでヤバイが……)。
だがブロマイドを見た瞬間、アシュラスのそのような気持ちを覆す衝撃が彼自身を襲う！
彼は目を大きく見開いた状態で口は半開きになり、この世のものを見ているのではない顔つきになったのだ。
ブロマイドの女性――ジャンヌの容姿などから感じられる雰囲気が、アシュラスの心を捉えて離さない。開いた口からは、声をだそうにもままならなかった。それ程の衝撃をアシュラスは受けたのだ。
「良い…女……だな…」
ようやくの事でアシュラスが口にした台詞は、まだ１２、3歳といった感じの少年にしては生意気なものだったが、それはブロマイドの女性を見たアシュラスの正直な気持ちを伝えていた。
素直に綺麗で美しいと感じられた。姉達と比べても遜色がないと、アシュラスは本気でそう思っていた。
ドキ…ドキ…ドキ…ドキ……。早鐘のように打つ心臓、それと共に体の内側から熱くなっていく感覚。それらがアシュラスを興奮の渦へと誘う。
炎の中にいるような、いや自身が炎になってしまったような感覚の中でアシュラスは、養父以上の熱い眼差しをブロ
マイドの中のジャンヌに向けていた。
「なっ、言ったじゃねぇか。ほんとに良い女だろ」
タ―ニルは得意顔で言い放つ。
「な〜んで同時代に生まれなかったかなぁ、ったくよぉ……」
そしてまた、タ―ニルのぼやきが始まった。
だが、今のアシュラスにはそれが気にならない。ジャンヌの事で頭が一杯だったからだ。この女性は何者？ いつの時代の人？ どんな人？ アシュラスの中で、ジャンヌに対する様々な疑問が渦巻く。
「この人は、一体どう言う人なんだ親父？」
遂に堪り兼ねて、アシュラスは自分の抱いた疑問の答えを知っていそうなタ―ニルに尋ねた。その際にタ―ニルの腕を掴んでしまった手に、つい力がこもる。
その時になって初めて義息子のただならぬ様子に気づいたタ―ニルは、始めは驚いたような顔をしたが次第にアシュラスの心の内に感づくと、ニヤリと悪戯っぽい笑みを見せた。
そして、もったいぶるようにジャンヌについて説明し出す。
「な〜んだ、その様子じゃやっぱりお前も気に入っちまったようだな。まぁ、無理もねぇけどよ。そんじゃあ、ここは一つこの偉大な御方について何も知らないという愚か者のお前に、この俺タ―ニル様が親切に教えてやろう」
「いいから早く教えろよ！」
タ―ニルがふざけたせいで痺れを切らせたアシュラスは、腕を掴む手によりいっそうの力を込めながら、刺すような鋭い視線を養父に向けた。どうやら、今のアシュラスに冗談は禁物のようだ。
そんなアシュラスの反応に対して、「痛っ！？」と短く呻いたタ―ニルは降参とばかりに掴まれていない方の手を上げ、引きつった笑みを浮かべる。
「わかった、わかったって！ これだからガキはよぉ〜……。いいか、良く聞けよ。この女性はな、このイ―ディス王国の建国女王にして最初のクレスト・ドラグ―ンなんだよ。『銀の竜騎士』の異名で知られててな、古竜イ―ディスを刻印の武具として数多の異形をぶっ倒した人だ。今から８００年も昔の話だけどな……。こんなブロマイドだけじゃなく、歌劇や演劇なんかの題材にされてる程の超有名人だぜ。お前もイ―ディスに住むんだったら、知ってなきゃ恥ずかしいぞ」
タ―ニルの説明が終わると、アシュラスは少し落胆した顔をしていた。「800年も昔……」という言葉に、たった今自分が好きになった女性がすでに亡くなっている事を実感したから……。今更ながらに、以前に自分が口にしていた言葉を後悔した。
なんともやるせなかった。先ほどのタ―ニルの台詞ではないが、何故に自分はジャンヌと同時代に生まれなかったのだろう？ と、思わざるにはいられない。だが、もうそれはどうしようも無い事なのだ。
そう思ったアシュラスは、不意にタ―ニルの手からジャンヌのブロマイドを取った。
「親父、これくれよ。いいだろう？」
どうせ実らない恋だと知ったからこそ、ジャンヌの存在を感じられるものが欲しいとアシュラスは思ったのだ。まずこのブロマイドを手始めに、ジャンヌ関連のものを少しでも集めようと決意していた。
しかし、アシュラス同様にジャンヌに執心しているタ―ニルが、当然、自分の持っていたブロマイドを手放す訳が無い。
彼は、アシュラスの行動に焦ってブロマイドを取り返そうとする。
「じょ…冗談だろう！？ それはなかなかレアなやつなんだぞ、やれるかよ！ ほら、早く返せ！ 返せって！」
「いいじゃんか、どうせ親父はこんなの他にも持ってんだろうし。へへっ、これも〜らいっと！」
タ―ニルの言葉に聞く耳を持たず、アシュラスはさっさとブロマイドをズボンのポケットの中に押し込んだ。
それに対しタ―ニルは、恐い顔をしながらアシュラスに掴みかからんと詰め寄って来る。それでもアシュラスは余裕を見せた顔つきで、すばしっこく養父の捕まえんとする手をかいくぐって工房の中を逃げ回り始める。それを必死に追いかけるタ―ニル。まさに鬼ごっこだ。
「コラッ！ アシュラス、いい加減にしろよ！ 俺が本気で怒らないうちに返せ。そしたら勘弁してやるから！」
「たった一枚のブロマイドくらい、くれたっていいだろう！ ケチな事言うなよ、男が廃れるぜ親父！」
「ガキが生意気言いやがって。それはレアものなんだよ、レアもの！ 簡単には手に入らないやつなんだよ！」
「それならなおさら欲しくなるな。これ絶対にもらうからな、サンキュウ親父！」
「な……勝手言ってんじゃねぇぇぇ！」
口々に言い合いながら義親子が追っかけっこをしている工房内は、修羅場の様相を呈してきていた。追いかけられながらもどこか面白げな表情をしている少年、それを異形の如き形相で必死に追いかける男。この二人が、大して広くもない工房内を舞台に走り回っているのだから無理もない。
二人は工房に置いてある盾やら兜やら鎧やらを蹴り飛ばしたり、相手に投げたり、また身を隠す盾にしたりと滅茶苦茶やっていた。そこの工房の主の事など気にも止めていない。
その頃、工房の主であるドワ―フの名工ドルヴァンは、一振りの刀を手に彼の落ち着く場所――工房へと向かっていた。
手に携えているのは、「風林火山」と銘を打たれた長刀である。それは紅い鞘に収められ、異様な雰囲気を放っていた。以前、ドルヴァンが東方よりの旅の刀匠から学びし技術でつくりあげた自慢の作品である。長らく所有する者がいなかった為に自分の家に飾っておいたのだが、ある二人の義親子が欲しいと言ってきたので譲る事にしたのだ。
それはドルヴァンにとっても嬉しい事だった。自慢の一品を使わずして錆びらせるのは、職人としてなんとも口惜しいと思っていたからだ。
そんな思い故にホクホク顔で義親子――アシュラスとタ―ニルの待っている工房へ辿り着く。中で、どんな事になっ
ているかも知らずに……。
ドッカン！ ガチャン！ バリン！ ガシャン！
工房の扉に手をかけた瞬間、ドルヴァンの耳に破壊音が響く。それは、工房内から聞こえてくる事がすぐにわかった。
自分の愛する工房で何事が起きたかと、目を白黒させて仰天したドルヴァンは勢い良く扉を開け放つ。途端に、工房内の無残な光景が彼の目に飛び込んでくる。
「ど……どうした…事じゃ、こりゃ……！？」
そう言ってポッカリと口を開けて唖然としてしまったドルヴァン。その目前では、それを無視するかのように相変らず義親子の追っかけっこが繰り広げられていた。
原因がその二人だとわかると、とりあえず騒動をやめさせようとドルヴァンは声をかける。
「こ、これ…いい加減にせんか！」
それでもやめる気配が無い。それどころか、気づくとドルヴァン目掛けて何かが飛んできた。避けようと思ったが時すでに遅く、それは景気良く音を立てて彼の頭に直撃する。
堪らず当たった箇所を抑えて痛みを堪えるドルヴァン。頭に当たって床に転がり落ちたそれを、激しい痛みを堪えつつ顔をしかめながらドルヴァンは見やる。なんと、その物体は大鎧だった……。
どうやら二人のうちどちらかが、相手にぶつけようとして投げつけたものが外れてドルヴァンに当たったらしい。彼は、よくこんなものが当たって平気だったなと自分の頑丈さに感心するとともに、工房を荒らし回る二人に対して激しい怒りが込み上がるのを感じた。
もう我慢の限界だ。ドルヴァンは、握り締めた拳を振るわせ大声で怒鳴る。
「やめんかぁぁぁ！！！」
シ―ン……。今までの喧騒が嘘のように静まり返る。あるのは、驚愕の表情を叫んだ主に向けて硬直しているアシュラスとタ―ニルの姿だった。
二人の目には、怒りで顔を赤くし、震わせた両の拳を握り締め仁王立ちして睨みつけてくる、頭髪の方は寂しくなっているが胸のあたりまで伸ばした豊かな白髭を蓄えた老ドワ―フ――言わずと知れたドルヴァンの姿が映っている。
それはまさに小鬼のような感じだった。
「おぬしら、いったい何をやっとたんじゃ……。まったくタ―ニル、おぬしはいい年して子どもと喧嘩などしておるのか？ 仮にもこの王国の精鋭、刻印の竜騎士じゃと言うのに…情けなや……情けなや……」
呆れたとばかりにドルヴァンは言った。
「こいつが俺のもんを取るからだぜ、爺っちゃん。ほら、返せよ」
ドルヴァンに反論するタ―ニルは、今度こそ返せと言わんばかりにアシュラスに手を差し出す。アシュラスは、それでも返すそぶりを見せない。もう完全にブロマイドは自分のものだと思っているようだ。
「なんじゃアシュラス、何を取ったんじゃ？ 見せてくれんかの？」
事の原因となったものをアシュラスが持っているとわかったドルヴァンは、それを見せてくれるように頼む。アシュラスは、渋々とポケットの中からブロマイドを出した。
それを見た瞬間、ドルヴァンは肩をガックリと落とす。こんな一枚のブロマイドの為に、自分の愛すべき工房が犠牲になったかと思うと泣きたい気分になった。
「アシュラスがそんなに欲しいんなら、あげたら良かろう。そしたら、こんなにひどい事にならなくとも良かったんじゃぞ……」
ため息まじりにそう言うと、哀れな老ドワ―フは工房内に散乱する武具を見て回る。どれも傷んでしまっていた。辛うじて壁に掛かっていたのが犠牲にならずにすんでいる。
そんなドルヴァンの姿を見て、タ―ニルとアシュラスはすまなそうな表情になった。そして口々に謝る。
「すまんな、爺っちゃん」
「ごめん、爺ちゃん」
ドルヴァンは二人の言葉を聞いて、「もうすんでしまった事じゃ」と言って工房の後片付けをしようとする。が、ふと何かを忘れている事に気付いた。そう、持ってきた刀だ。キョロキョロと見回すと、それは出入り口の扉付近に見つける事ができた。鎧が頭に直撃した時に思わず落としたのだ。
「そうじゃ、忘れるとこじゃったわい。これを持ってきてやったんじゃ。ほれ、大事に扱うんじゃぞ」
長刀はアシュラスに手渡される。彼に使わせる為にタ―ニルが譲ってくれるように頼んだからだ。
「ありがとう。それじゃ親父、そろそろ帰ろう」
「そうだな。それじゃあな、爺っちゃん。刀、ありがとよ。そう言えばアシュラス、ブロマイドやるとは言ってねぇぞ。返せって」
「親父、諦めが悪いなぁ。もう、これはオレのもんだって」
「どうしてそうなる！」
あれだけの騒動を起こしておいて、またも懲りずにプロマイドの事を言い合いながら工房から離れて行く二人。しかし、それはどこかジャレあっているようにも見えた。そんな義親子の微笑ましい光景。
と、そこへドルヴァンの一声が掛かる。
「ちと待たんか」
怪訝な顔をして振り返るアシュラスとタ―ニル。
「工房を荒らしたのは誰じゃったかのぉ？」
そう言うと普段は好々爺といった雰囲気の顔に意地の悪い笑みを浮かべて、ドルヴァンは二人を引きずって工房へと連れ戻す。
かくして、アシュラスとタ―ニルは工房内の後片付けをさせられる羽目となった……。
そんなこんなで、アシュラスの初恋は始まった。この後、根負けしたタ―ニルからジャンヌのブロマイドを譲り受けると、それを機に様々な手段でジャンヌ関連アイテムを収集していく事となる。まるで、決して実る事のない初恋の憂
さを晴らすかのように。それはアイテム収集だけでなく、劇の観賞に熱心になるといった行為にも発展していく。そして時は3年の月日を刻む……。
これは夢か、現か、幻か……？ アシュラスは不思議な光景を見ていた。そこは辺り一面に草原が広がり、所々に木々や草花などが生えていて、何か安堵感を与えてくれる場所だった。しかしそこは一体、何処なのか？ アシュラスには理解できなかった。
確かアシュラスは、イ―ディス竜槍騎士団の詰所であるアルド―ル砦の一室で寝ていたはずなのだ。彼の武術の師匠、イ―ディス王国の王女にして竜槍騎士団団長のアンヌ・オルレアンが砦に詰めているので、弟子であるアシュラスも修行の為に砦で生活していた。そしてある日の夜、いつもの様に修行を終えてからグッスリと自室の布団に包って寝たはず……。しかし起きた……か、どうかはわからないが、気付いてみると見た事も無い不思議な光景の中に居たのだ。
「夢なのか？ でも、それにしてははっきりし過ぎてる気もするし……」
アシュラスは自分の立っていた場所に屈み込み、そこに生えている草を触ってみる。やはり、はっきりと感触を実感できた。まるで現実と変わらない。それだけでは無く草花や土の匂い、優しく吹き抜けていく風、そしてその風によってざわめく木々の音……。そのどれもがはっきりと実感する事ができた。よく聞いてみると、虫や鳥たちの鳴き声もしている。
「一体、どうなってるんだ？ 悪夢なら早いとこ覚めて欲しいけどな」
理解できない状況にアシュラスは、肩を竦めてそう呟いた。
「悪夢とは酷い言い様だぜ、ここは俺たちの隠れ里だってのによ！」
唐突に聞こえた声に警戒するように反応したアシュラス。声のする方に振り向くと、そこには巨体を誇る生物が自分を見下ろしていた。猛々しさを感じさせる赤い色の固い皮膚を持ち、鋭い眼光を放つ瞳をアシュラスに向け、威圧するように背中に生えた翼を大きく広げている。なんと、それは竜だった。
「うわっ！？ びっくりさせるなよ。いったい何時からそこに居たんだ？ それになんで竜が喋れるんだよ。ほら見ろ、やっぱりこれは悪い夢じゃないか」
アシュラスは、喋る竜(？)という奇妙な生物の出現に少し驚きながらも夢の出来事だと決めつける。イ―ディスには王国騎士団に飛竜騎兵が存在しているように、多くの竜族が生息している。しかし、それらが人語を話すとは聞いた事が無い。
「バカ野郎！ 俺様は古竜だ！ エルダ―ドラゴンなんだ！ お前ら人間の住むアルカディア世界の天地守護を担っているハイ・ガ―ディアンっていう高位の半霊半物なんだぜ。つまり竜の中の竜、エリ―トって訳よ。だから頭も良く、お前ら人間の言葉も話せるって訳だ。敬って諂えよ」
ググッと顔をアシュラスの頭上に突き出して偉そうに反論する古竜。鼻息も荒く、アシュラスを睨みつけている。アシュラスはそんな古竜の態度に不愉快になり、張り合うように顔を突き合わせた。
「古竜だか何だか知らないが、夢だからってずいぶんと威勢が良いじゃないか。オレがその程度で怖気づくとでも思ってるのか？ 上等だ、竜退治でも何でもしてやるぞ！ こっちはお前なんかより数倍も恐いお姉さんと修行してるんだ。ぶっ飛ばしてやる！」
知らないうちに良くわからない状況へと置かれ、そこでいきなり出て来た奴に威張られては面白くない。アシュラスの心は烈火の如く怒りに燃え、今にも素手で古竜へと殴りかからん勢いだった。夢の中であろうという気持ちが、無茶な行為に走らせている原因でもあった。
素早く古竜との距離を計ると、拳を固めてファイティングポ―ズをとって見せる。本来、アシュラスは拳闘技では力を十分に発揮できないが、夢の中ならお構い無しとばかりに素手で挑もうとしていた。そんな姿を見て、古竜は呆れた様に溜息をつく。
「やれやれ……。お前は古竜の凄さがまるでわかってないな。今のお前じゃ、天地がひっくり返ったって俺様には勝てやしねぇよ。しかも素手なんて話にならねぇぜ。それに、俺様は何もお前と戦いに来たんじゃねぇんだ」
「な…なんだ、やらないのかよ。どうやらオレに用があるみたいだけど、これって夢なんだろう？ オレが勝手に見てるものだろう？ だったらこのままボカスカやりあって、お前を倒した夢の方が良いんだけど……」
アシュラスは、古竜の態度が豹変した事で戸惑った。それに古竜の言った事で、今起きているのが夢だという推測に、最初より強く違和感を感じるようになっていく。アシュラスは段々と薄気味悪さを感じ始めた。夢でなくば何だというのだろうか？ そんな疑問が頭の中に渦巻く。
「夢……ねぇ…。ま、確かに夢ではあるな。だが、完全に夢とは言い切れねぇのも事実だ。なにしろ、この隠れ里は実在してるんだからよ。ようするに夢と現実の狭間って事だな。お前は夢を介してここへと辿り着いた……っていうか、俺様が辿り着かせたんだぜ」
古竜が示した現状に対する答えは、完全に頭が混乱するような内容だ。ただはっきりしているのは、アシュラス自身の意志とは関係無しにここへ来たという事だった。
「何だかよくわからないけど、ようするにお前が勝手にオレをこのヘンテコな所へ連れてきたって訳だ。で、オレに用っていうのは何なんだ？ もし、つまらない事だったら承知しないぞ！」
とりあえず状況を断片的にも理解できた事で、幾分か落ち着いてきた。古竜の真意を知るべく、アシュラスは語気も荒く問いただす。
「悪夢の次はヘンテコか……相変らず口の減らねぇ野郎だぜ。まぁ、もう良いけどよ。それより用ってのは、お前が俺様のお眼鏡にかなったって事だ。有り難く思えよ。俺様が人間に力を託すなんて、そうそうある事じゃねぇんだぜ」
「お前の力をオレに託す？ それってオレが刻印の竜騎士になれるって事か！？」
「そういう事だ。話がまとまったとこで、さっさと竜墓へ行こうぜ。ある御方が首を長くして待ってるからよ」
「あ…あぁ……」
しばしの問答の末、自分がイ―ディス王国の精鋭である刻印の竜騎士になれると知ったアシュラス。刻印の竜騎士になる事は密かに憧れていたのだ。いきなりの事に喜びを感じずにはいられない。
古竜は自分の身体に乗れと、アシュラスを背中に乗せると颯爽と飛び去った。グングンと速度を上げ、竜墓を目指して突き進む。辺りの景色が遥か後方へと流されていく。唸りを上げる疾風が金髪を掻き乱す中でも、アシュラスは刻印の竜騎士になれる事に思いを馳せていた。
しばらくすると、遠方の先程とあまり変わらない景色の中に大きな建造物が見えてきた。おそらく、それが竜墓と呼ばれるものなのだろう。古竜はその手前まで来ると、ゆっくりと降下していく。アシュラスは古竜が着地しないうちに飛び降り、竜墓の方へと走り寄った。
「おい古竜！ 早いとこオレに刻印の力を授けてくれ！ 聞いた話じゃ、イ―ディスとか言う奴に会えば良いんだろう？ そいつは何処に居るんだ！」
憧れ、そしてある目的の為の「力」として、なんとしてもなりたかった刻印の竜騎士(クレストドラグ―ン)になれる事で、嬉しさのあまり気が急いてしまっていた。それ故に、古竜にしてみれば無礼とも思える醜態を晒すアシュラスだったが……。
「バッ…バカ野郎！ イ―ディス様を呼び捨てにするんじゃねぇ！ なんて無礼な態度とりやがるんだ！ 知らねぇぞ俺は……」
先程とは打って変わって、なにかイ―ディスという古竜に恐縮している風な態度を見せる古竜がアシュラスを戒める。が、簡単に聞き入れる程アシュラスも素直では無い。なかなか姿を現さないイ―ディスという古竜に苛立ちを覚え、遂には「嘘ついたろう！？」とまで言う始末。だが、それはようやく姿を現した。
どこからともなく姿を見せたその者を見た時、アシュラスは自分の目を疑う……。その姿は竜ではなく、どこから見ても人間だった。それも女性、そしてアシュラスにとっては初恋の人だ……。
「ジャ…ジャン……ヌ」
そう言うのがやっとだった。決して会える事は無いと思っていた。決して自分の想いが成就する事は無いと思っていた。でも、その相手がそこに居るのだ。すぐ目の前に……。その衝撃は大きかった。
次の瞬間、アシュラスは飛びついていた。もちろん、ジャンヌ(？)にである。好きで好きで仕方ない気持ちを、今まで関連アイテムや劇などで抑え込んできたのだ。実物(？)が目の前に現れたら、思わずその抑えていた気持ちをぶつけてしまうのも無理からぬ事であった。が、しかし……。
「な……何するのよ！？ このエロガキ！」
突然のアシュラスの行為に面食らったジャンヌ(？)は、華麗に身を避けると思いっきりアシュラスの頬に平手打ちを食らわす。アシュラスは、吹っ飛ぶようにして派手に地面へと叩きつけられた。
「痛ってぇ……。いきなりぶたなくても良いじゃないか……」
頬をさすりつつ、ゆっくりと身体を起こして言うアシュラス。彼にしてみれば素直な気持ちの表現だったのだが、相手にしてみれば無礼極まりない行為にしか見えないだろう。ジャンヌ(？)は、ぶ―たれるアシュラスを一瞥すると、彼を連れてきた古竜の方に顔を向ける。
「あんたもよく、こんなのをパ―トナ―に選んだわね」
「は…はぁ……。ですが、内に強き想いを持ってるもんで……」
「強き想い？」
「ええ、見かけによらず熱い奴なんです。俺、そういうのが気に入っちまってるんで……」
「あんた、確か以前もそういう人間に力を託してたっけ、物好きねぇ」
「そういうイ―ディス様だって……」
「ん？ なんか言った？」
「いえ、何も……」
恐縮したように話す古竜と高圧的な態度で話すジャンヌ(？)。話ぶりからすると、ジャンヌ(？)の方が古竜より高位の者らしい。その間、アシュラスは熱い眼差しをジャンヌ(？)に注いでいた。その視線に気付いたようにジャンヌ(？)はアシュラスに視線を移すと、スタスタと近寄って来て彼の前に立つ。
アシュラスの心臓が激しい音を打ち鳴らす。ぶっ叩かれたといっても、長い間、想い続けてきた人だ。姉上達以外に初めて好きになれた異性だ。だから、先程の事など気にも止めずに自分の想いをぶつけようと、高鳴る鼓動を抑えて彼女の瞳を真っ向から見据えた。そして、告白をしようとした瞬間……。
「あんた、見たところ悪い奴じゃなさそうだしね。さっきの事は忘れてあげる。刻印の竜騎士になる事を承認するわ」
ジャンヌ(？)は、アシュラスの行動を遮る形でそう言った。そして、クルリと踵を返してその場を去ろうとする。
「ちょ…ちょっと待ってくれよ！？」
アシュラスは去ろうとするジャンヌ(？)を見て、焦ったように引き止めた。ここでの事がどんなカラクリになってるのかはっきりとわからないが、とにかく初恋の相手が側にいるのだから、この機を逃す手は無い。養父タ―ニルには悪いが、この千載一遇のチャンスをものにする。そう、強く決意したアシュラスは思いきって先程言おうとした言葉を口にした。
「好きだ！ オレ、あんたの事が好きなんだ！ う…上手くは言えないけど、とにかくあんたの魅力に惹かれたんだ。お願いだから、その…オレと付き合って……付き合ってもらえないかな！」
抑えていた気持ちを全て吐き出すように一気に捲くし立てる。その後は、荒い息をつきながら相手の反応を窺った。
一方、告白を受けたジャンヌ(？)は、ポカンとした表情でアシュラスの顔を見つめている。
「ク〜ハッハッハッハッ！ そういう事か、なるほどねぇ」
突如、大きな笑い声を響かせると共にそう言った古竜は、訳知り顔といった感じで頷いて見せる。
「お前は今まで、イ―ディス様を英雄ジャンヌ・オルレアンと勘違いしてたって訳だ。笑わせるじゃねぇか。しかも、既に死んだ英雄を好きになっちまうなんてよ。イ―ディス様も笑ってやったらどうです？ クククク……」
古竜の言った事を聞いたアシュラスの頭の中では、「？」の嵐が吹き荒れていた。だが、古竜にバカにされている事だけはわかり、即座に怒りが込み上げてくる。
「いったい、なんだって言うんだよ！ おい古竜、笑うのやめろよ！ あの人はジャンヌじゃないのか！？」
必死に声を張り上げて怒鳴るアシュラス。なにがなんだか、訳がわからなくなっていた。
「あはははは……。面白いね、あんたって。確かに若き日のジャンヌの姿をとってるけど、あたしの本当の名はイ―ディスって言うのよ。残念ながら人間じゃないの。そこの古竜と同じ存在なのよ。だから、悪いけどあんたの想いに応えてあげる事はできないわ」
混乱しているアシュラスに諭すように事情を告げると、イ―ディスはスッとその場から姿を消した。アシュラスは、ただ呆然とその様を見ているしか出来なかった。悪いイタズラに引っかかった気分だ。
そんなアシュラスの心境を感じさせるかのように、寂しげな風が吹き付ける。それは、アシュラスの髪をなびかせ、地に生えている草花を撫で、木々をざわつかせながら彼方へと消えて行く。
なんとも呆気ない初恋の幕切れだった。ガックリと肩を落として、しばらくその場にへたり込むアシュラス。
「まぁ、そう落ち込むなって。好きになる気持ちはわかるけど、お前が無茶すぎる相手を選んだのが不運だったんだからよ」
「好きになっちゃったんだから仕方ないだろ……」
古竜が見てられないとばかりに元気づけようとするが、ショックが大きかった今のアシュラスには効き目が無く、心底ションボリとした声が返って来た。
「ふ〜、まったくしっかりしてくれ……。これから長い付き合いなるっていうんだからよ」
いつまでも吹っ切れずに落ち込むアシュラスを見て、古竜は溜息と共に言った。そして、そんなアシュラスに構わずに刻印の竜騎士としての心得などを教えていく。アシュラスは、それをうわの空で聞いていたのだった……。
一人の少年の儚き初恋は、不思議な出来事の中で終わりを告げた。しかし、終わりがあるからこそ、始まりもまたあるのだ。この後、少年の新たな恋が始まるのである……。