シーズ･パヴェルが初めて彼女に出会ったのは、蒼海都市エウリアの貧民街だった。
大きめの手提げ袋を肩に掛けて通りを歩く彼女を見てまず思ったのは、いいカモだということ。考え事でもしているのか、心ここにあらずという様子で、無用心なことに何の武器も持っていないように見えた。護衛がいる気配もない。この辺りが、貧民街の中でも治安状態最悪な一帯だと知らない余所者だろうかという、疑問が浮かぶ。
（――ま、んなこた、どうでもいいや。ちゃんと金目の物さえ持っててくれたら）
余計なことを頭から振り落とし、獲物の様子をもう一度よく観察する。
飾り気の無い灰色のコートというぱっとしない格好のせいで気付くのが遅れたが、結構な美人だ。知り合いの娼婦達と比べても、そこそこいい線いっていると思う。
（奴隷商人に売っぱらえば、いい金になるんだろうけどな）
そんなことを考えるが、少年ひとりでそこまでの仕事はできるものではない。仕方がないから、シーズは自分でできることをするつもりだった。
久しぶりに稼ぎをあげられそうだと、心が躍る。これを上手くやれれば、やさに帰っても兄貴たちに痛めつけられずに済むだろう。
その頃のシーズは、ギルガルド帝国のエウリア侵攻で家族を失い、貧民街の周辺を根城にする犯罪者集団の末端にぶら下がって、盗みや引ったくりをしてかろうじて生命を繋ぐ、惨めな――しかし、当時のその場所では別段珍しくもない少年だった。
女が目の前を通り過ぎた後、気付かれないようにその後をつける。薄汚れた身なりをした痩せっぽちのガキなど、この辺りにはいくらでもいる。背景に自然に溶け込むのは、至極簡単だ。
彼女と歩調を合わせ、少しずつその距離を詰めていく。
鳶色をした女の髪が、風になびけば顔にかかりそうなところまで近づいて、シーズは袖口から商売道具の小さなナイフを取り出した。
歩調を速めて追いぬきざまに、素早くナイフを振るう。
女の肩に掛かった手提げ袋の紐を切断するはずだった刃は、直前でかわされ空を切った。
（え……？）
女の滑らかな動きに驚く暇もなく、腹に異様に硬くて重い一撃が来た。
「ぐぇ……」
踏み潰されたカエルのような声を出して蹲った少年の目の前で、ついさっき腹を抉ってくれた手提げ袋がぶらぶらと揺れている。
（ちくしょ……。袋の中に何入れてやがる？）
「何だ、ただの物取りかぁ」
逆流しそうな胃液を飲み下して顔を上げると、例の女が何事も無かったような顔で少年のことを見下ろしていた。
「ごめんね。変な気配がしたから、教団のシャドウかと思って本気で振り抜いちゃった。立てる？ 怪我してない？」
女が微笑みながら、少年を立ち上がらせようと白い手を差し出してくる。
（……う……うぁ……あ）
その繊手は、予想外の事態に混乱したシーズの目には、彼に振り下ろされる兄貴たちの拳と重なって見えた。暗く汚い部屋の隅で日ごと繰り返される、彼の脆弱な身体をメインディッシュとした嗜虐の饗宴。
「いやだっ……もうやめてくれ、兄貴っ!!」
悲鳴をあげて、反射的に女の手を跳ね除け、飛び退る。
その手にはまだ、ナイフが握られていた。
「――あ？」
女の手を弾いたナイフの刃にべっとりと紅い液体が付着しているのを見て、少年の目が大きく見開かれた。
少しずつ、現実が戻ってくる。ここは何処か。今は何時か。そして自分は何をしでかした？
「あ……あああぁ……ああ」
少年の咽喉から、嗚咽が漏れた。
傷を負わせてしまった。誰も傷つけないで獲物だけ盗ると決めていたのに。それだからお前はダメなんだと、兄貴たちに何度痛めつけられても、それだけは譲らないで通してきたのに。
（それだけが、兄貴たちと俺の違うところだったのに──)
腕を切られた女が苦痛でなく疑問の表情しか浮かべていないことも、いつの間にか女とふたりで野次馬に取り巻かれていることも、思いつめた少年の目には映っていない。
「ねぇ、あなた……？」
もう終わりだと囁く声がする。
一度越えてしまった一線なら、もう行くところまで行ってしまえ。
少年の黒い瞳に、殺意が瞬く。
（殺ってやる。あんたのせいだ。あんたが悪いんだ。あんたが余計なことするから、こうなっちまったんだ）
表情を無くした少年が、不安定な動きで前に出る。手にした血塗れの刃を腰溜めに構えた。
「ふうん。そう来るの」
対する女は、何の構えも取ることなく、自然体でその場に突っ立っている。白昼の刃傷沙汰に沸きかえる野次馬たちの囃し声にうんざりしているようではあっても、不快な表情は浮かべていない。見かけに反して、こうした空気に慣れていることは確かだろう。
シーズには、目の前の女は隙だらけにしか見えない。それなのに、その身体は、ある一線から前に踏み出すことを本能的に拒否している。
「ちくしょう！」
絶叫とともになけなしの勇気――より一般的には無謀と言うべきだろう――を振り絞った少年は、葛折れそうな身体を鞭打って前に駆け出した。
灰衣の女めがけて、刃を振るう。何度も、何度も。そのたびに、女は僅かに身をかわし、シーズの動きを巧みに受け流している。
頭に血が上った少年の動きからは、先ほど女の荷物の紐を切り落とそうとした時の正確さが消えていた。ただ闇雲に振り回されるだけの刃の動きは単調で、少しでも戦い方を学んだ者なら容易に対処できる。
ナイフ使いの拙さを周囲の野次馬たちが笑う声が、シーズの耳につく。
（うるさい！ 笑うな！ 笑うな！）
嘲笑を振り払うように真っ直ぐ刃を突き出した手に、予想外の硬い手応えが返ってきた。
「……え？」
少年の刃は、女の身体を貫く前に、彼女が楯にした荷物に根元まで埋まって止まっていた。シーズがその刃を引き抜こうとするより早く、女の手が意外なほど強い力で彼の手首を握って、ナイフごと右腕の動きを封じてしまう。
唯一の武器を抑えられた以上、シーズにはもう何ひとつ打つ手は無かった。
（……やっぱりダメなのかよ、俺は）
きっと、自分はこのままこの女に殺されるのだと、落胆とともにシーズは思った。少なくとも、少年が今身を置いている世界では、間違いなくそうだった。
それならせめて、死んでから間違いなく祟れるように、相手の顔をしっかり目に焼き付けてやろうと、少年は自棄気味に女を睨みつけた。
初めてじっくり向き合う女の顔は、優しい微笑を湛えていた。
こんな時だというのに――そのひとはとても綺麗だと、少年は素直にそう思った。
気遣わしげに、彼女が口を開いた。
「ひょっとして、人に刃物を向けるの、初めて？」
ぼうっとして答えを返せない少年に構わず、そのひとは続ける。
「武器を振るうなら、もっと落ちつかなきゃ。冷静に確実に、敵の力を削いでいく。それが戦いの基本よ。そして武器に頼りすぎない。そうでないと、こんな時に困るでしょ」
「あ……」
彼女の白くて細い指が、荷物に刺さったままのナイフの柄から、強張った少年の指を一本ずつそっと剥がしていく。
我にかえった少年は、彼女の傷ついた手から目を逸らして、恐る恐る尋ねた。
「あ、あの……。手、大丈夫……？」
聞くまでもなく、大丈夫なはずはない。現にそちらの手で支えている荷物には、紅い染みがゆっくりと広がり続けている。
「平気平気。大した傷じゃないから、止血してちょっと手当てすれば大丈夫よ。それに、痛みなんて元々無いしね」
これ以上少年を心配させないように、殊更明るく彼女は言った。こうして見ると、意外と若いのかもしれない。多分二十歳にもいっていないだろう。
「痛みが……無い？」
少年の口の中での呟きは聞こえなかったのだろう、彼女はくるりと周囲を見まわし、野次馬を追い散らしにかかっていた。
「さあ、見世物はこれでお終い。あんたたち、どうせ木戸銭なんか払うつもりも無いんでしょ。だったら、さっさと散って散って！」
その言葉で、まだ物足りなさそうにしていた野次馬たちも、仕方なくその場を離れていく。貧民街の往来には、すぐに普段通りの人の流れが蘇った。
「……俺を役人に突き出さないのかよ？」
逃げ出す機会を失ったシーズは、相手の思惑がまるで分からないまま、彼女と一緒に廃屋――もしかしたら、まだ使われている建物かもしれないが――の壁に背を預けて、通りを行く貧しげな身なりの人々を眺めていた。
「あたしも今まで色々やってきたから、これくらいでどうこう言うつもりはないわ。結局、あたしに被害があったわけでもないし」
それが当たり前のように、彼女は言った。
（被害が無い、ねぇ……）
ちらりと、彼女の右手に視線を落とす。シーズが服の裾を裂いて作った包帯の下には、手のひらから前腕の半ばまでを抉った刃の傷が、ぱっくりと口を開けているはずなのだ。それなのに、この程度の怪我は特段気に留めることでもないと、彼女は言う。さっき言っていた痛みがないというのは、本当だろうか。もしそうなら、羨ましいとシーズは思う。
「こういう仕事するなら、もう少し判断力を身につけることね。あたしがあなたなら、最初に荷物を盗り損ねた時に、逃げにかかってる。まして、逆上して斬りかかるなんて持っての外。さっきの状況だと、殺されたって文句は言えないんだからね。これ、一応元先輩からの忠告」
「んなこた分かってるよ。大体、俺が逃げる前に腹に一撃くれやがったの、あんただろうが」
妙な先輩風を吹かす女に不機嫌にツッコミをいれたが、堪えている様子はまるでない。
「んー、そうだっけ？」
「ボケてんのか、てめぇ！ ……あぁ、畜生。ついてねぇ。せっかくいいカモ見つけたと思ったのに、そいつがこんな非常識化物女だったなんてな」
「――あんた、そんっなに冥府送りになりたい？」
口元を引きつらせた女が、低い声で言った。
「けっ、何が冥府だ。そんなの、今だって大して変わりゃしねぇじゃねぇか」
吐き捨てて、シーズは彼女から顔をそむけた。
「――ねぇ、ちょっといい？」
不意に女が、声の調子を真面目なものに変えた。
「な、何だよ？」
「さっきの様子を見て思ったんだけど――あなた、ひどい目に遭わされてるんじゃないの？ それも、仲間から」
（――余計なお世話だ）
身内のことでごちゃごちゃ言われたくなくて口を閉ざしていると、女はシーズの腕を取り、勝手に袖を捲り上げた。
「あ、おい！」
露出した少年の細い腕に、痛々しい傷痕が無数に刻み込まれているのを見て、彼女はすっきりした眉をひそめた。
「やっぱり。手加減なしって感じね、これ。包帯巻くのが上手くなるわけだ」
「あんたにゃ関係無いだろ。放っといてくれ！」
自分の弱さを曝け出してくれたお節介な女の手を乱暴に振り払ったシーズは、腕の傷を隠すように素早く袖を下ろした。
「あなた、本当にそれでいいの？ 今のままでも、生きていくことはできるのかもしれない。でもそれは、死んでいないだけ。あなたが言った通り、それは生きながら冥府にいるのと何も変わらないのよ。違う？」
「うるせぇ！ だったら、どうしろってんだよ！ 俺には、あいつらを叩きのめす力も、他に行く場所もないんだぜ。だけど、奴らの言うことを大人しく聞いてりゃ、生かしておいてもらえる。それで充分なんだよ、俺は！」
シーズは険しい目つきで、知った風な口を聞く女を睨んだ。勝手な御託は沢山だった。彼女に言われるまでもなく、今の状況から抜け出す道は無いかといつも必死で探して、その度にいつも苦い失望を味わわされているのだから。
「そうやって、自分の心を殺して、諦めるわけ？ そいつらに殴られっぱなしで、それでも犬みたいに尻尾を振り続けるつもり？ 人としての誇りがあるのなら、闘ってみせなさい」
「他人のことに何ムキになってんだよ、あんた？ そんなの余計なお世話なんだよ。勝手な理屈押し付けるのも、いい加減にしてくれ！ これ以上、俺にくだらない口出しすんじゃねぇよ、このバカ女！」
「ちょっと、あなた――！」
言いたい事を全て叩きつけると、彼女の罵声混じりの制止を振りきって、シーズは入り組んだ裏路地の奥へ向けて駆け出した。
迷路のような裏路地に逃げ込んでしまえば、あの女と出会うことはもう二度と無いだろう。そう思うと、なぜか胸の奥にぽっかりと虚ろな穴が開いたような気がした。
（……く……しょう。何が、『闘え』だ。そんなことできるなら、とっくに……）
狭い路地をひたすら走り続けるシーズの眼前に、突然太い腕が突き出された。激突直前で辛うじて立ち止まるものの、体勢を崩してその場に尻餅をつく。
シーズの腰ほどもある太い腕の主が、細い路地の暗がりからぬっと姿を現した。
「へへ。相変わらず元気そうだなぁ、シーズ」
「デリグの兄貴……」
嫌らしい笑みを貼り付けた巨漢を、少年は怯えた眼差しで見上げた。下から見ると、まるで小山のような印象がある。シーズが身を寄せている犯罪者集団の副頭目で、力任せ一本槍の荒事師。そして、シーズの身体に一番多くの傷をこしらえた男だ。
その後ろから続いて現れた、彼とつるむことが多い連中が数人、シーズの逃げ場を塞ぐように周囲を囲んだ。
「め……珍しいね。兄貴が昼間っから表に出てくるなんてさ。何か変わったことでも……」
シーズが追従を最後まで言い切るより早く、デリグの重い蹴りが入った。少年の軽い身体は、それだけで大きく吹っ飛ばされる。
「俺が昼間から出歩いちゃいけねぇってのか？ てめぇ、この俺を、日の光で身体が焼けるような化け物どもと同じだとでも思ってやがるのか？ あぁ？」
「そ……そんなこと……」
身体を起こしかけたシーズの頭を、デリグが再び蹴り飛ばす。地面に転がった時に、口の中に鉄の味が広がった。このまま気を失ってしまいたいと、朦朧とする意識の中で思う。あるいは、あの女が言っていたように、痛みがなければどれほど幸福だろう。
「口答えするなよ、可愛いシーズ」
猫なで声を出しながら、仰向けに転がった少年の胸を、鉄板を仕込んだブーツで押し潰す。
「くあ……あ……」
シーズの鉤のように曲がった指が、無意識に地面を掻きむしっている。苦しい。息が詰まる。そのくせ、シーズが気を失いそうになると少しだけ圧力を緩めて、意識が戻ると再び押し潰しにかかる。
「おら、ごめんなさいはどうした？ さっさと言わねぇと、このまま潰しちまうぞ」
「ご……ごめ……」
「なんだぁ、聞こえねぇぞぉ！」
「構うこたねぇっすよ、兄貴。このまま、いっちまいましょうぜ」
周りで下卑た笑い声をあげる屑どもをぶち殺したいという衝動を必死に抑え、身体に染みついてしまった媚態で哀れみを乞う。
「ごめんな……さい。もう兄貴に逆らわないし、何でも言うことを……聞くから……だから、お願い。殺さ……ないで！」
「へっ、しょうがねぇな」
満足そうな声を漏らすと、デリグは少年の胸からブーツを離し、彼の口元に突き付けた。
「舐めろ」
泥と血の付いた汚らしいそれを、シーズは一瞬の躊躇も見せず、舌を伸ばして懸命に舐める。
その姿を、奴らが蔑んだ目で見て笑っているのが分かる。それでも、既にシーズには、嫌悪や屈辱を感じる感覚など無くなっていた。そうしなければ、奴らの不興を買ってすぐにも殺されてしまうのだ。ここで生きていくには、余計な感情など邪魔でしかない。
（――そいつらに殴られっぱなしで、それでも犬みたいに尻尾を振り続けるつもり？）
あの女の言葉が、何故か頭の奥で響いた。
（……ほんと、『犬』だよな、これじゃ）
そう思うと、シーズ自身とっくに涸れたと思っていた涙が一筋、零れ落ちた。頬の擦り傷に涙がしみる。だが、その痛みは、少年が忘れた何かを思い出させてくれるような、そんな気がした。
「よし、もういいぞ」
デリグが自分の口に押し当てていたブーツを引くのを、少年はひどく現実感のないもののように見ていた。
（何もかも夢ならいいのに……）
どれだけそう思っても、現実は変わらない。それでも、そう思わずにはいられない。少年には、それしか許されてはいないのだから。
放心した少年に、デリグは悪意に満ちた笑みを向けた。
「なぁ、シーズ。お前、さっき女引っ掛けたんだってな。それも、なかなかいい女だっていうじゃねぇか。まだまだ餓鬼だと思ってたが、なかなかやるもんだよなぁ。それを聞いて、俺は思わず迎えを送っちまったぜ」
「……兄貴？」
少年が小さな身体を震わせたのを見て、デリグの岩のような顔に浮かんた笑みが、嗜虐の色を更に強くする。
「可愛い弟分に、せっかく女ができたんだ。その祝いに、みんなで歓迎してやろうってのさ。心配すんな。お前にしてやってるみたいに、ちゃあんと可愛がってやるよ。きっと泣いて嬉しがってくれるぜ。もっとも、その時にゃもう、ぶっ壊れてるかもしれねけどなぁ」
その言葉を合図に子分たちが下品な声をあげて笑うのも、シーズの目には入らなかった。まだ幼いシーズにも、デリグが何を言っているのかくらいは分かる。一瞬凍りついた身体をどうにか動かしたシーズは、デリグの足に縋り付いて懇願した。
「待って。あの女とはそんなんじゃない。あのひとは俺とは関係無いんだ。だからお願い、そんなことはやめて……」
「うるせぇっ！」
顔面への膝撃ちで少年を沈黙させ、デリグは片手でシーズの細い首を掴み上げて壁に何度も叩き付けた。ぐったりしたその身体をそのまま壁に押し付け、呻き声を漏らすシーズの目線を自分の高さに合わせる。
「う……くっ……」
「いけねぇなぁ、約束破っちゃあ。俺らの言うことは何でも聞くんじゃなかったのかい？」
少年の首を締めるデリグの腕に、一段と力が篭もる。
「安心しろよ、可愛いシーズ。いい子にしてたら、お前にもちゃんと楽しませてやる。俺たちが全員満足した後でな。くく。どうだ、優しいだろう」
「お……願い、やめ……て……」
窒息しそうな状況にもかかわらず、シーズは必死にかすれた声を絞り出した。これ以上この暴君に歯向かえば、本当に殺されるに違いない。他人のことを気にして生命を棄てることはないと、心の中で声がする。それでも、奴の下卑た言葉にだけは、どうしても従いたくはなかった。自分のせいであのひとが不幸になるくらいなら、自分がここで殺された方がましだ。
いつも従順なはずなのに、今日に限って反抗を止めようとしない少年の態度に、デリグの機嫌が急激に悪化し始める。
「おい。もう一度だけ聞いてやる。シーズ、お前の女を俺たちに紹介してくれるよな」
途切れかける意識を引きとどめるのに精一杯で、もう声を出す力も無くなったシーズは、それでもわずかに首を横に振った。苦悶に歪んだ顔に、誇らしげな微笑を薄く浮かべて。
「この糞餓鬼が!!」
笑われることに慣れていない暴君は、激昂のままに少年の身体を地面に叩き付けた。少年の口からは笛の音のような息が漏れるばかりで、最早悲鳴すら出ない。
「もういい。ぶち殺してやる！ てめぇにも、いい加減飽きてきたところだったんだ。新しい玩具に取り替えるとするさ」
指を鳴らしながら近づいてくるデリグを、傷だらけの少年は、地面に転がったままぼんやり見上げていた。デリグの巨体が一歩近づくたびに、死も一緒に自分に近づいてくる。それが分かっていても、シーズにはもうその場から逃げるだけの力は残っていなかった。
だが、死が眼前に迫っているというのに、不思議と悪い気持ちはしなかった。頭の中がすっきりして、とても安らかでさえある。こんな感じは、一体何年ぶりだろう。
少年の穏やかな顔に苛立ちを刺激されたデリグが、憎々しげな言葉を吐く。
「ふん。楽には死なせてやらんぞ、シーズ。最後まで、たっぷりと楽しませてもらうからな。それと、あの女のことは心配するな。すぐに、おまえの後を追わせてやる」
「……てめぇは！」
安らかな気持ちは一瞬にして吹き飛び、シーズは自分の無力さに歯を軋ませた。この嗜虐者がそうした宣言を決して違えないことを、シーズはよく知っている。そして、自分にデリグを止める力が無いことがどうしようもなく悔しかった。
残忍な笑みを浮かべた暴君が少年の腕を踏み潰すべく鉄板入りのブーツを持ち上げた瞬間、どこからか飛んできた大きな人形のようなものが彼にぶち当たった。片足立ちの状態だったデリグは、たまらず、それと絡まりあって倒れる。
「な……？ お前、なぜ!?」
よく見れば、それは人形では無く、シーズにも見覚えのあるデリグの手下のひとりだった。何があったのか、ぐったりとして完全に意識を失っている。
デリグがその身体を押し退けて立ち上がろうとしたところに、さらにもうひとり、同じようにして飛んできた。
今度はシーズにも分かった。シーズが背にした建物の屋根から、誰かが気絶した彼らの身体を投げつけたのだ。だが、気絶した人間の身体を軽々と放り投げてみせるなど、容易にできることではない。
（一体誰が……？）
シーズが顔を上向かせると、屋根の縁にすらりとした人影が見えた。とても大の男を投げ飛ばせるようには見えないが、他にそれらしい人間の姿はない。
「あんたが、そいつらの親分？ だったら、もう少ししっかり躾ておいてほしいわね。女の子への声の掛け方、最悪なんだもの。まあ――最初から拉致するつもりだったとしても、へたくそとしか言いようが無かったけど」
冷ややかな声音が路地に響く。聞き間違えるはずもない。先ほど別れた女の声だ。
「あんた、何で!?」
シーズは慌てた。貧民街から離れてくれれば奴らに見つかる可能性もかなり低くなるというのに、この女はどうしてわざわざ自分から出向いてくるのだ。
「なるほど、てめぇが例の女か」
デリグは気絶した手下たちの身体を投げ捨てて、屋根の上の女に向かって仁王立ちしていた。
「こそこそ逃げ回ってりゃいいものを、自分から来てくれるとはな。手間が省けたぜ。――どうやら、役立たずの弟分どもが世話になったらしいじゃねぇか。その礼も合わせて、このガキの目の前で殺ってやる！ さぁ、さっさと下りてこい。楽しもうぜ！」
「――つまんないことをよく吠えるわね。まるで狂犬みたい」
女が軽く屋根を蹴ると、その身体が重さが無いような動きで宙に舞った。
背中から夜のように黒い何かを噴き出させ、灰衣の女はシーズを護るようにその目の前にふわりと着地した。
「……黒い……羽根？」
女の背から生えているのは、黒鳥のそれに似た大きな翼だった。磨き上げた黒曜石のような輝きを帯び、幽かな燐光を発する、闇色の美しい翼が六枚。それが、少年を包み込んで大きく広げられている。
「い……異端神官！」
周囲を囲む男たちの間に、動揺が走った。本来純白の翼人の翼が漆黒に染まっているということは、すなわちその黒翼の持ち主が異神の加護を受けた証し。そう思って見れば、女が着ている灰色のコートは、アシュタール教団の略式の神官衣だ。
「いかにも、わたしはアシュタール神のご加護を受けた身です。あなた方がこのまま退くのならば、見逃しましょう。しかし、戦うとあらば、わたしが全力を持ってお相手します」
戦の神に仕える者にふさわしい態度に口調を改めて、黒翼の異端神官が無法者たちに宣告した。
「……おい、無茶するなよ。異端神官だかなんだか知らねぇけど、こいつらをまとめて相手にする気かよ。悪いこと言わないから、さっさと逃げてくれ。俺のことなんか放っておいて……」
シーズの言葉を遮るように、黒い翼が少年の頬を撫でた。くすぐったいような心地よいような、微妙な感覚。
「あたしのこと、心配してくれるんだ。ありがと。でも大丈夫よ。ここから先は、おねーさんに任せなさい」
一瞬だけ肩越しに笑いかけてくれたそのひとの姿は、シーズにはまるでこの世に舞い降りた気高い女神のように見えた。
破壊の異神アシュタールとその教団の持つ悪名に圧され、少しずつ後退っていた男たちに向けて、デリグが凶暴に咆える。
「てめぇら、何びくついてやがる！ たとえ異端神官だろうが、相手は女ひとりじゃねぇか。構うこたねぇ。さっさとひっ捕まえて嬲り殺しにしろ！」
その命令を受けて、四人いた手下たちが異神の神官に飛びかかった。彼らにとっては、噂で聞いたことしかない異端神官より、目の前で牙を剥く獰猛な副頭目の方がよほど恐ろしいのだ。
「――遅い」
男たちに組み伏される前に、黒翼の女は正面から来る男の懐に飛び込み足払いをかける。間髪いれず、バランスを崩したその身体を隣の男にぶつけ、無様に縺れ合った男たちが起き上がろうともがくところに、例の硬い荷物を勢いよく顔面に叩き込んだ。
（うあ……痛そう）
あの荷物を腹にねじ込まれた感触を思い出してシーズが顔をしかめている間も、風に踊る黒い花弁のように優美な動きで、有翼の神官は怒りに頭を沸騰させた男たちを翻弄していた。
掴みかかろうとする男たちの腕を擦り抜け、その力を逆に利用して自滅を誘う。男たちは、突進の勢いのままに壁にぶつけられ、あるいは突き出した腕の力の方向を曲げられ腱をねじ切られて、ことごとく戦闘能力を奪われつつあった。
（すげぇ……）
突進してきた最後のひとりを肩越しに飛び越えざま、その側頭部に手提げ袋の重い一撃をぶち込んで沈めると、さながら死の荒野に立つヴァルキリアといった風情の有翼の美女は、手下たちを戦いにけしかけていたデリグと対峙した。
「さて、残るはあなたひとりね。これ以上は下っ端の後ろに隠れられないけど、まだ続ける？」
「ふ……ふざけるな、この女ーっ!!」
容易く挑発に乗ったデリグが巨体を揺らして、自分よりずっと小さな体躯の女に襲いかかった。
「ダメだ、避けて！」
シーズが叫ぶより早く、デリグが後ろに回した腕を振り抜いた。それまでと同じく紙一重でかわしたはずの彼女の脇腹が切り裂かれ、灰色の神官衣が赤黒く染まっていく。
「嬲り殺しなんてのはやめだ。今すぐぶち殺してやる」
目を血走らせた巨漢の手には、腰の後ろに差していた分厚い肉切り包丁が握られていた。相手を切るためというよりは『解体する』ための、残忍な凶器だ。
傷を負わされた翼人の女神官は、傷口の血を指で掬って、無表情にそれを舐めた。
「得物を持ち出すってことは、ここからは生命のやり取りをする覚悟があるということでいいのね」
翠玉色の目をすっと細めた戦神の神官に気圧されるように、デリグの巨体が動きを止めている。常に他者を恐怖で縛ってきたデリグにとって、自分が恐怖を与えられる側になるなど、断じて認めるわけにはいかなかった。底知れない恐怖を狂的な憤怒にすり替えて戦意を掻き立て、デリグは分厚い刃をかざして不快な女に再び切りかかった。
「うおぉぉぉっ！ 死ねやあぁっ!!」
「その言葉、そっくり返すわ」
背後に跳躍して凶刃をかわした翼人の周囲に、空間を侵食するようにして黒い靄のようなものが湧き出した。
「眠りなさい、闇の中で――」
黒翼の神官の囁きに反応したように、槍のような鋭さを持った無数の『黒』が一本の束となって押し寄せ、デリグの身体を呑みこんでいく。
荒れ狂う『黒』の帯の中から、暴君が上げた背筋の凍るような断末魔が響いた。
「えっと、シーズ君だっけ？ 生きてる？」
横たわったままのシーズを覗き込むようにして、異端神官の女が聞いた。
「……勝手に、殺すんじゃねぇ」
シーズが反射的に軽口を返すと、安心したように女は笑った。
「うん。ちゃんと口ごたえできるなら、とりあえずは大丈夫みたいね。――そんなになるまで、よく頑張ったわ。お疲れ様」
ついさっきまで戦っていた時の凛とした姿が嘘のように、翼人の女は優しげに少年の頭を抱え、黒髪をくしゃくしゃと撫で回している。
「俺は何もしてねぇよ。あの糞野郎にずたぼろにされただけさ」
「だけど、そんなになってまで、あいつらからあたしを守ろうとしてくれてたじゃない。それで充分」
「な……てめぇ、見てたのかよ？ だったら、もっと早く助けやがれ！」
シーズが跳ね起きて抗議すると、彼女はそれを見てくすりと笑った。
「ごめんね。あなたがどこまで頑張れるか見てみたかったのよ」
「……ごめんね、じゃねぇ！ 見ろよ。おかげで、俺はこんなぼろぼろになっちまったじゃねぇか」
「だけど──悪い気分じゃないでしょう？」
曇りの無い翠玉色の瞳が、心の奥を見透かすように真っ直ぐ見つめてくる。その視線を意識すると、シーズの感じていた腹立ちはあっという間に霧散してしまった。
「……ま、まぁな」
彼女の顔をまともに見るのがなぜか気恥ずかしくなって、シーズはそっぽを向いてぼそぼそと答えた。彼女の言う通り、この数年の間にすっかり忘れていた感覚が戻ってきたのは確かだが、それを素直に感謝できるほどシーズは真っ直ぐな性格ではなかった。
「――なぁ、あいつらはどうした？ 殺したのか？」
シーズが無理に話題を逸らしても、彼女は律儀にそれに付き合ってくれた。
「まさか。ちゃんと生きてるわよ。ただし、後で役人に引き渡してやるけどね」
「そうか。なら、お頭の所に戻ると、奴らを役人に売った見せしめに殺されるのがおちだろうな」
シーズは諦めの吐息を漏らした。もし連中を役人に突き出さなかったとしても、今度はデリグに復讐の対象にされて殺されるのは間違いない。どちらにしろ、シーズが曲がりなりにも生きていける唯一の場所は、もう無くなってしまった。
（――どうしたものかね）
投げ遣りに考えてみても、行く当てなど思いつくはずがない。このまま野垂れ死ぬのも悪くないかと思っているのが伝わったのか、女神官がひどく心配そうな顔をしていた。
「あなた、行く場所無いんでしょ。こうなったのもあたしのせいだし、よかったら、うちに来ない？」
「……アシュタールの教団なら、俺は行かないぜ。奴らのせいで、俺の家は無くなったんだ。あんたのことは、そりゃ嫌いじゃないけど――でも、今度の戦争を起こした奴らの所になんか絶対行きたくない」
生命が保証されるという点では、その話は確かに魅力的だ。それでもシーズはきっぱりと断った。悩むまでもない。自分の心を殺すのは一度で充分だ。
「やっぱり、普通はそう思うよね」
少年に拒絶されて、アシュタールの女神官は端正な顔に困ったような笑みを浮かべた。
「でもね、あたしの所は違うわ。帝都の教団と縁を切って、本当の信仰を一から立て直す為の新しい教団なの。あなたがアシュタールの信徒を信じられない気持ちも分かるけど――あたしを信じてくれるのなら、一度来てみない？ 多分、あなたのためにもなると思う。入信するかどうかは、後で考えてくれればいいからさ」
「あんたは――？」
「ああ、そういえば自己紹介がまだだったわね。あたしはセレナ･アシュフォード。アシュタール神を奉じる新教団『アシュタール聖教』の神官長よ」
自らの属する教団の名を口にする時の彼女は、何だかとても誇らしげだった。心から誇れるものがあると、人はこれほど眩しく見えるものなのだと、シーズは初めて知った気がした。心の奥で、かすかな羨望を自覚する。
（――こういう物好きがいる所なら、行ってもいいかもな）
心の中の天秤が一方に傾くのを感じながら、もう少し反応を見ようと、自称神官長をからかってみる。
「……あのさ、その神官長様がこんな所でひとり何してたんだよ。金を毟れる相手なんて、こんなとこにゃいないだろ」
「お金のためじゃないわよ。こういう所にこそ、足を運ぶ必要があると思わない？ 誰より生きる希望を必要としてるのは、社会の底辺に押し込められている人たちだもの。――まぁ、説法して歩くのに人手が足りないってのもあるけどね。何しろ、まだ独立したばっかりだし」
正直に内幕を語って苦笑する彼女を見て、心の中でしょうがねぇなと呟く。こんな考え無しの女、放っておけるわけがない。
「――行くだけだぞ」
「え……？」
「何度も言わせるな。行くだけだって言ってんだよ。いいか。気に入らなかったら、すぐに出ていくからな」
シーズの言葉を理解するにつれて、不安の翳を帯びていた彼女の表情が花のような笑顔に変わっていった。
「それでもいいわ。――アシュタール聖教へようこそ、シーズ君。聖教を代表して歓迎します！」
それが、シーズ･パヴェルと彼女――セレナ･アシュフォードの最初の出会いだった。
キャスティング・リスト
セレナ･アシュフォード 女/19歳/ウィングル/159ｃｍ/48ｋｇ
アシュタール教団大神官ランス・ハミルトンの教拒に異を唱え、肉体の鍛錬よりも精神の超克を重視する独自の教団『アシュタール聖教』を興すに至った女性。三対六枚の黒翼を持つ。特技は猫かぶり。
エウリアの貧民街で、行き場を失ったシーズを拾う。
シーズ･パヴェル(ＮＰＣ？) 男/12歳/ウィザード/133ｃｍ/35ｋｇ
エウリアの貧民街で犯罪者集団の一員として生きていた少年。裕福な商家の生まれだったが、エウリア戦役の勃発によって家族は四散してしまった。セレナに拾われた後は、聖教の神殿で雑用をこなしている。
後に神官戦士となって中原や東方に修行の旅に出るらしいが、それはまた別の話。
デリグ(ＮＰＣ) 男/34歳/ウォーリア/209ｃｍ/115ｋｇ
エウリアの貧民街に根城を持つ犯罪者集団の副頭目。小山のような体躯から分かる通り、恐るべき膂力を誇る。真性のサディストで、シーズを虐待して楽しんでいた。
セレナの手により捕縛され、後に処刑。