それは、シーズ・パヴェルが聖教神殿での暮らしにも慣れ始めた頃――
久々の悪夢で目が覚めたシーズは、まだ真夜中の神殿を当ても無くうろついていた。
帝都の教団から独立して日が浅い『アシュタール聖教』は、今のところこの小さな神殿が唯一の拠点であった。エウリアの下町で空家になっていた店舗を改造して使っているだけだから、かなり手狭であることは否めない。面積のほとんどを礼拝堂に取られているため、住み込んで暮らすには色々不便もある。
人気の無い石造りの礼拝堂は、冷たい夜気に重く沈んでいた。既に深更を回った時刻である。宵のうちに酒場から流れてきていた嬌声も完全に絶え、辺りは侵し難い静寂に満たされていた。
その奥、聖霊神殿であれば聖霊を表す八芒星や聖帝の像が安置されている場所には、一振りの大剣が立て掛けられていた。本来あるべき信仰の復活を掲げるアシュタール聖教では、初期のアシュタール信仰に倣って、戦神の象徴である武器そのものを崇拝の対象としている。
装飾を排した無骨なその形状は、神剣と呼ぶには神秘性に欠ける。こうして神殿の奥で奉られるよりも、戦場で傭兵に振るわれている方が似合いそうな代物である。
（なぁ。戦場を離れて、ただ飾られるだけの毎日は幸福なのか？)
武具に宿るという精霊に心の中で語り掛けながら、日課としていつも手入れをしているその剣をシーズは鞘から抜き放った。
重い。切先から柄頭までシーズの背丈程もあるその剣は、非力な少年の腕力では、真直ぐに構えるのさえ苦労するほどの重さだった。素振りをしたら、多分五回ともたない。
世界から音が消え去ったような静寂の中、窓から射し込む月光を弾いて、剣の刃だけが美しく白銀色の輝きを放っていた。
拭っても消えない血の曇りと幾つもの刃毀れが、この剣がただの飾り物ではなく、多くの戦場をかいくぐってきた戦士の持ち物だったことを少年に教えてくれる。
破壊と殺戮のための、力の象徴。
こうして剣を構えていると、自分にもその力が宿ったような錯覚を感じる。路地裏でこそこそと惨めに這い回っていた頃には、想像したこともない昂揚感。そして、思うが侭に力を振るい、誰かの肉体に刃を埋めたいという狂暴な衝動が、胸の奥から湧き上がってくる。
夜闇を見据える切先の向こう側に、血煙の舞う戦場が視えた気がした。
血の匂いに引かれそうな自分がいる限り、アシュタールの加護は受けられないとシーズは思う。弱い心のままでアシュタールに力を授けられたら、きっとすぐにその力に溺れてしまう。
シーズは、それが怖かった。歯止めもなく荒れ狂う力の恐ろしさを、少年の身体はまだ忘れていない。かつて彼を縛っていた男のようになど絶対になりたくはなかったが、力を手に入れた自分がそうならないという確信をシーズは持てない。
（――あんたの道なんだから、どこへ行くか、どう歩くかは、自分で決めなさい。まぁ、道標くらいなら、あたしが立ててあげてもいいけどさ）
彼を拾ってくれた神官長は、シーズに異神崇拝を強制したりはしなかった。いまだにアシュタールに祈りを捧げない少年に、自分の信仰を押しつけるでもなく、異分子として突き放すでもなく、微妙な距離を取って見守ってくれている。
彼女が内心では、本当の意味での帰依を自分に望んでいることは、シーズにも分かっていた。それに、路地裏の暮らしから救い出してくれた恩もある。だから、今帰依しても、それは信仰に目覚めたのではなく、彼女に恩義を返すための行動でしかないような気がする。そんな形で帰依しても、彼女はきっと喜んでくれない。
アシュタールの力を受け止められると思える日が来るまで、歩む道を自分で決められるようになるその時まで、もう少し――迷ってみようと思う。
「――くしゅん！」
大きなくしゃみで、それまでのぴんと張り詰めていたものが切れた。我にかえると、初冬の冷気が身に凍みる。
「うー、寒い……」
構えを解き、洟をすすりながらシーズはぼやいた。薄い夜着が冷たい汗で肌にべったり張り付いて、ひどく気持ち悪かった。その上に見習い神官用の目の粗い神官衣を羽織ってはいるが、それだけでは真夜中の冷気にとても耐えられたものではない。まして、肉付きの薄い少年の身体には、寒さがことのほか堪える。
「ったく、あの北国育ちのカラス女め。冬服くらい早く用意しろってんだ。帝国と違って、こっちはこれでも充分寒いんだよ｣
その場にいない黒翼の神官長に悪態をつきながら、シーズは剣を元通りの場所に戻した。
「くそ。寝なおそ……」
ひとりで文句を垂れ流しても、何だか虚しい。羽織った神官衣を掻き寄せながら、シーズは冷え切った礼拝堂から立ち去った。
自分の部屋に戻る途中で、どこかから明かりが廊下にこぼれているのにシーズは気付いた。どうやら神官長の部屋のようだ。
「あいつ、まだ起きてんのかよ。ひとには、ランプの油がもったいないから早く寝ろって言ってるくせに」
一度は無視して通りすぎようとしたシーズだったが、夜も更けたこんな時間に彼女が何をしているのか気になった。
「……覗いてやれ」
思いつきは即座に実行。元々好奇心の強い性格でもあるし、何よりあの女を相手に遠慮しても始まらない。
足音を殺して、寝室であり執務室としても使用されるその部屋に静かに近寄っていく。
「……う……うぅ……」
隙間からオレンジの光が漏れる簡素な扉の前まで来ると、扉越しに女の苦しげな呻き声が聞こえてきた。
（……セレナ？ どこか具合でも悪いのか?）
シーズの顔から血の気が引いた。思い当たる節があるからだ。ここ数日、彼女は顔色が悪く、何をするにもひどく反応が鈍かった。病気じゃないのかと昼間に尋ねた時には彼女は平気だと答えていたから、シーズもそれ以上気に留めなかったが、無理矢理にでも薬師に見せておくべきだったかもしれない。
「セレナ！ セレナ、大丈夫か!?」
乱暴に部屋の扉を開け放ち、室内に駆け込む。
そこで彼が見たのは――
「あううぅ、計算がどうやっても合わないよ〜」
帳簿の前で頭を抱えて呻く、アシュタール聖教神官長セレナ･アシュフォードの姿だった。
元々部屋数の少ない聖教神殿では、使える部屋は最大限活用されている。神官長の部屋も例外では無く、奥をカーテンで仕切って寝室とした私室は、神官長の執務室であると同時に、来客用の応接室や、各種書物を収めたちょっとした書庫としても利用されていた。
壁の一方を占める書架には、『聖帝信仰の伝播とその経路』とか『英霊と邪神に関する比較研究』、『異界概念に対する楽園・冥府の影響』、『黒の帝国における信教の自由』などなど、専門的な書物がずらりと並んでいる。純粋な宗教書よりも、研究者が著した学術書の割合の方が大きい。
「――で」
黒光りする樫材の机に頬杖をついたシーズは、向かいに座すセレナを冷たく一瞥してから、不機嫌に言葉を続けた。
「よーするに、ここしばらく顔色が悪かったり、ぼーっとしてるのが多かったり、人の話を全っ然聞いてなかったりってのも全部、ただの寝不足だったっつーわけだな」
「……ま、まぁ、そういうことかな」
神官長の位を示す緩やかな法衣を纏ったセレナが、曖昧な微笑を浮かべて頷いた。普段の自信に満ちた様子はすっかり影を潜めており、話し方もいつになく歯切れが悪い。
「で、その原因がこれってわけだ」
机の上に並べられた革表紙の帳簿を一冊、シーズは手に取った。どこの商家でもよく使われる、どうということのない帳簿である。
（……ちっ、馬鹿馬鹿しい。本気で心配して損したぜ）
セレナに気付かれないよう、舌打ちする。考えてみれば、殺しても死にそうにないこの女が、しおらしく病気になんか罹るはずがない。
自分の迂闊さを呪っているシーズに構わず、セレナが彼の手から帳簿を取り上げる。
「この前からつけてみてるんだけど、帳簿って思ってたよりずっと難しいのね。計算が全然合わなくて、いくらやっても終わんないの。おかげで、ここ暫く寝てないのよ」
欠伸を漏らしながらそう言うセレナは、疲労と睡眠不足で目の下に隈ができるほどひどくやつれていた。肌の色艶もかなり悪い。身体を強靭にし一切の苦痛を消し去るアシュタールの加護といえど、徹夜明けの疲労まではその担当範囲外ということだろう。
「まあ、会計なんてのはややこしいもんだって相場が決まってるけどな。中身、ちょっと見せてみろよ」
「いいけど、分かるの？」
「馬鹿にするなよ。俺んちは、これでも商売やってたんだぜ。帳簿の見方なんて、ガキの頃から仕込まれてらぁ」
「そう？ じゃあ手伝ってよ、シーズ。もう、ひとりじゃ終わりそうになくて。あ、言っとくけど、中身を誰かに漏らしちゃダメだからね」
「分かってるよ、んなこと。どこが間違ってるのかくらい、俺がすぐに見つけ出して……」
聖教の設立以来の収支が記入された帳簿をくっていくうちに、シーズの口元が引きつり始めた。
「……おい、セレナ」
怒鳴りつけそうになるのを抑えてシーズが尖った声を投げつけると、部屋の主は居心地悪そうに身じろぎした。どうやら、多少の自覚くらいはあるらしい。
「……何？ どうかした？」
「ガキのおこづかい帳か、これはっ!? こんな大雑把なやり方で、金を扱っていいとでも思ってんのか？」
「う……。そんなに言わなくても」
弟子から目を逸らしたセレナは、子どもっぽい仕種で神官衣の袖を意味無くいじっている。
「言いたくもなる。計算以前の問題じゃねぇか。こんないい加減なことしてて、もしここが潰れたらどうする気だ。しっかりしてくれよ、ほんとに。――ったく、帝都の教団で何してやがったんだか、このカラス女は」
「悪かったわね！ あたしは街中で布教ばっかりで、そんな帳簿なんて一度もつけたこと無かったんだから。できなくて当たり前じゃない！」
「いばるな。ただの神官なら、それでもいいんだろうけどな。てめーは神官長だろ。だったらこれもてめーの仕事。きっちりお役目を果たすんだな」
「わ……分かってるわよ。だからこうして、徹夜までしてるんじゃない」
憮然とするセレナに構わず、言いたいことを吐き出しきって落ちついた少年は改めて帳簿を繰り始めた。じっくり見ると、計算が間違っている箇所がすぐに目にとまる。後ろに行くにつれてそれが多くなるのは、徹夜続きで集中力が無くなっていった証拠だろう。
（頭が悪いわけじゃないだろうになぁ……）
シーズは、神官長と書架に並ぶ書物をちらりと見比べた。そこには、アシュタール信仰の変遷についてセレナ自身がまとめた研究書もある。これだけの大著は、能無しには書き上げられるはずもないのだが。
「しっかし、何だって急に帳簿の整理なんて思いついたんだ？ あんたって、自分からこんなことしそうなタイプにゃ、まるっきり見えないんだけど」
「えーっと、その……言わなきゃ、ダメ？」
笑ってごまかそうとする神官長の態度は、わたしは隠し事してます、と自分で白状しているようにしか見えなかった。
「――いーから言え」
「う……。えっとね、この神殿を改装したり、学校に援助したり、あと追儺（ついな）式の準備もしなきゃいけないしで、このところ色々物入りだったでしょ。それで、お金が苦しくなって……ちょーっと貸してもらったのよね。高利貸しから」
「……おい」
「いや、大した額じゃないのよ。返済日までに、それくらいは寄進で充分集められると思ってたし……」
「ダメだったんだな」
「……そう。で、仕方ないから、他所からお金を借りてそれで返そうかと」
「待て、こら」
何だか、胃が痛いような気がしてきた。
「……それで、別の所にお金を借りに行ったんだけど、資産の状況を見てからでないと貸せないって言われて」
「信用ねぇんだな、うちは。――まぁ、大体分かった。ひとつ聞くけど、今回無事に金を借りられたとして、それはどうやって返す気だ？ まさか、また他の所から借金するつもりじゃねぇだろうな？ そのまま行くと、雪ダルマ式に借金が増えて破産だぞ。分かってんのか、世間知らずの宗教バカ」
弟子の少年に激しく詰め寄られて、セレナは口を尖らせた。
「あたしだって、それくらい知ってるわよ！ ――平気だってば。来月には、ちゃんとお金を送ってもらえることになってるんだから」
「誰からだよ？ そんな話、聞いたことないぞ。本当に信用できるのか、それ？」
シーズに問い返されて、セレナはしまったという顔になった。
「説明しろよ、セレナ。何隠してんだ」
「わ……分かったわよ。教えてあげる。でも、絶対他の人には秘密だからね。……ちょっと耳貸しなさい」
一瞬躊躇った後、セレナは辺りを憚るように少年の耳元に口を寄せ、小声でその辺りの事情を説明してくれた。彼女の髪のさらさらとした感触が頬に心地いいが、今はそんな場合ではないので、彼女の言葉に意識を集中する。
「……ふぅん。それなら、大丈夫なんだろうな」
彼女の説明に納得しきれたわけではないが、他に当てがあるわけでもないし、今はセレナの言葉を信じるしかないとシーズは自分に言い聞かせた。それでも胸の奥が軽くならない辺り、本当に身体は正直だと思う。
「いつまでも向こうを頼るわけにはいかないから、そろそろ自立したいんだけどね。今月みたいに出費が重ならなきゃ、信徒さんたちの寄進で何とかやっていけると思うんだけど」
その言葉は、シーズには根拠のない希望的観測としか聞こえなかった。布教の対象を貧民層や下級の兵士に絞っている現状では、そう簡単に財政に余裕が出るはずがない。
（将来のことより、大事なのはいま現在だろーが）
昔父がいつも胃が痛いと言っていた気持ちが、今なら分かる。とにかく、善後策とさえ言えないが、セレナが考えたように、借り換えで当座を凌ぐしかなさそうだった。この際文句も言っていられない。
「おい、借入れの返済期限はいつまでだ？」
「えっと……明後日、だったかな？」
「ち。その分じゃ間にあわねーな。――仕方ねぇ。帳簿よこせ。俺が代わりにやってやる」
「ほんとにっ!?」
翠玉色の瞳を輝かせたセレナに、シーズは大氷原の風より冷たく言った。
「今回だけだからな。これが終わったら、会計ってやつを基礎からみっちり叩きこんでやる」
「そ……そんなこと言わないでさ、これからもずっとやってみない？」
「却下。これも試練ってやつだ。せいぜい頑張りな」
「はうぅぅっ……」
歳若い神官長の身体が机の上にぱたっと突っ伏すのを見て、シーズは微かに口元を緩めた。せめて、今までと逆の立場を楽しむくらいはさせてもらおう。
――その後、シーズの胃の痛い日々は、翌月に資金を予定通り受け取れるまで続いたという。
キャスティング・リスト
セレナ･アシュフォード 女/19歳/ウィングル/159ｃｍ/48ｋｇ
六枚の黒翼を持つ、アシュタール聖教神官長。宗教的指導者としては有能でも、組織の経営能力は今ひとつらしい。頑張って、会計の仕組みを勉強中。
シーズ･パヴェル(ＮＰＣ？) 男/12歳/ウィザード/133ｃｍ/35ｋｇ
アシュタール聖教の神官見習い兼雑用係。セレナとは、師弟というより姉弟のような関係。商家の生まれだけに数字に強く、セレナが苦手とする財政面から教団の運営を補佐している。