ＬｏＡプラリア 作者：そろもんさん 掲載日：２００１．９．２５
遥か遠いあの空に
夢を見た。
とても懐かしい夢だったことは、よく覚えている。なのに、どんな内容だったか思い出そうとすればするほど、手のひらから零れ落ちる砂のように、夢は彼女の意識から擦り抜けて消えてしまう。
おぼろな記憶をそれ以上辿ることを諦めると、セレナ・アシュフォードは固いベッドからそっと抜け出した。
火の気のない部屋の空気は、ひどく寒々しい。床に下ろした素足から、ひんやりとした冷たい感触が伝わってくる。
彼女の部屋は、さして広くもないところを、カーテンで執務室と寝室のふたつに区切って使っているため、余計に狭苦しく感じる。同様に教団を代表するものの部屋とはいえ、帝都にいた頃出入りしていた大神官の間とのあまりの落差には、もう苦笑するしかなかった。
（――何だか、目が冴えちゃったな）
セレナは飾り気のない無地のカーテンを押し退け、執務に使っている側に出た。
夜明けにはまだ遠いのだろう。辺りは物音一つなく、しんと静まり返っている。
とはいえ、暖かな寝床に戻って、もう一度寝直す気にもなれない。椅子の背に掛けておいたショールを寝衣の上に羽織ると、セレナは重い窓を開けて外を眺めた。
彼女の視界を、白い紗が覆っていた。見上げた暗い夜空から、冬の使者たちが静かに降りてくる。純白の薄絹のように優雅に、世界を美しく飾り立てるために。
「……雪」
呆然と、セレナは口の中で呟いた。
「昔の夢なんか見たのも、このせいかな？」
セレナが差し出した掌に触れると、小さな雪片はたちまち溶けて消えてしまった。
彼女が知る雪とはまるで違う。
長い間彼女が暮らしていた、灰色の雪雲と白い雪原が見渡す限りどこまでも続く無彩色の世界では、雪は多くの生命を奪い去る無情な死の女神に等しかった。
なのに、こうしてエウリアで見る雪は、とても綺麗だ。死と隣り合わせの毎日では気づけない美しさだと、セレナは思う。
（みんな、どうしてるかな……？）
闇に舞う雪を見ていると、帝都で過ごした日々が脳裏に蘇る。
ちょっとわがままなピクシーのお嬢様と自称保護者の青年は、今日も仲睦まじくしているだろうか。大神官を慕っていた儚げな少女が倒れたりしていないか心配だし、いつも口喧嘩をしていた不良神官が教団から放り出されていないかも、気になるといえば気になる。
教団で寝食を共にした、かつての仲間たち。教団を離れた今となっても、彼らと過ごした時間は、彼女にとって最良の思い出のひとつであることに変わりはない。
しかし、彼らと往く道を違えたのはセレナ自身の選択だった。その道が二度と交わらないことは、誰よりも彼女がよく知っている。
後悔はしていない。それなのに、帰らない日々の追憶は、後から後から浮かび上がってくる。
冷たく凍った 白い大地にも
いつかは 氷の溶ける日が やってくる
重たい灰色の 明けない雪空も
いつかは 陽光(ひかり)射す日が やってくる
気がつけば、セレナは、昔よく歌った曲を小さく口ずさんでいた。
みんなで笑って、つまらないことで喧嘩して、何とはなしに雪雲の広がる灰色の空を見上げる、どうということのないありふれた日常。
何故だか、胸の奥が鈍く疼いた。
身体が小さく震えるのは、寒さのせいだろうか。セレナは無意識のうちに、薄いショールを掻き合わせた。
いつしか、視界を覆う雪は吹雪に変わり始めていた。
舞い踊る白いベールの彼方に広がる雪雲は、きっとあの帝都まで続いているんだろうなと、セレナはぼんやりとそう思った。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
年の瀬だというのに、アシュタール聖教の神官見習いシーズ・パヴェルは、いつもと変わらず雑用に明け暮れていた。
「……はぁ、はぁ。これで……終わりだっ！」
物置に納めるように言われた薪の最後の一束を、積み上げた薪の山に投げ込むと、それでとうとう力尽きて、シーズはがっくりと板床にへたり込んだ。
（あー、ちくしょう……。もう一歩も動けやしねぇぞ）
酷使された少年の身体が、あちこちで音を上げていた。この二ヶ月ほどで多少は力がついたと思っていたのに、現実は薪の束を抱えて一階から三階まで何往復かしたくらいで動けなくなっている。鍛え方が足りないとしか言いようがない。
（――アシュタールの加護がありゃ、このくらいどうってことねぇんだろうけどな）
異神の加護が欲しくなるのは、こんな時だ。軍神アシュタールの加護は、信徒から苦痛を取り去り、強靭な膂力を与えてくれる。
（……だからって、ひとから力をもらって楽をしても仕方ねぇけど）
求めるべき望みもなく、ただ楽をしようと安易に力を欲する者は、やがては欲望に溺れ、力を得るためだけに力を追い求めるようになる、とは聖教の神官長が常々口にしていることだ。「戦争のための戦争」を望むギルガルドのアシュタール教団を意識した言い草ではあるが、その言い方は、彼らに対する非難というより、自分たちへの自戒という色彩が濃い。そうでなければ、反抗心の強いシーズが素直に共感したりはしなかっただろう。
現世利益という名の拝金主義に染まったロンディールの教団と、それへのプロテストとして極端な原理主義に走ったランスの教団を前にして、聖教は聖霊信仰に接近し、倫理を重視する方向を選択した。獲得し行使する力に方向性を与え、社会との共存を目指すという点で、同じ原理主義という言葉で括られがちなランスの教団との差別化を図ったのである。
結成当初は激しい不信の目で見られていた聖教であるが、そうした自分たちの拠って立つところを繰り返し何度も説くにつれて、周囲から少しずつ存在を認められるようになりつつあった。
かつては戦乱の軍神アシュタールに嫌悪を抱いていたシーズも、聖教の主張に触れて、随分自然に祈りを捧げられるようになっている。
それでも、力を求めるに足る正当な理由を未だに見つけられずにいるシーズは、異神の加護をまだ受けていない。
その負い目がある分――少なくとも神官長は何も言わないが――、シーズは神殿の誰よりもよく働いた。信仰者としては失格同然な評価を、日々のお勤めで取り返そうというわけだ。
シーズの行動は、彼を拾ってくれた神官長に対する評価にそのまま跳ね返る。自分がどう思われようとシーズは構わなかったけれど、自分の行動のせいで彼女の評判が落ちると思えば、身勝手なことはできない。――もっとも、本人の前でそんなことは、口が裂けても言うつもりはないが。
ぐったりと床にのびているうちに少しは体力が回復したらしく、シーズはのろのろした動きで身体を起こした。
「うぅ、あぢぃ……」
外の風に当たろうと、這うようにして天窓に近づく。
窓を押し上げると、吹き込んできた冷風が室内の埃っぽい空気をかき混ぜた。シーズの火照った頬に、冬の冷えた風が心地よい。
しばらく目を細めていたシーズは、窓の外を見渡して思わず歓声を上げた。
「――うわぁ」
目に飛び込んでくるのは、眩いばかりの白。
昨夜から降り続いたこの冬最初の雪は、エウリアの街並みを粉砂糖をまぶしたように白く飾り立てていた。普段と違う色が一色加わっただけで、見慣れた景色が、シーズには普段と違う新鮮なものに見えた。
峻険なデルキア山脈を北の防壁とするカルディー平原では、真冬でも大した積雪量にはならない。それでも、一冬に何度かは積もることはあって、幼い頃のシーズはそのたびに庭で駆け回っては泥だらけになって、いつも母に叱られたものだった。
懐かしさを覚えながら白い眺望を楽しむシーズの耳に、風に乗って聖らかな歌声が届いた。
冷たく凍った 白い大地にも
いつかは 氷の溶ける日が やってくる
重たい灰色の 明けない雪空も
いつかは 陽光射す日が やってくる
だから じっと待ちましょう
冬の女王が 北へと帰る その時を
胸の奥の火 凍らされないよう 気をつけながら
「――歌？」
声の主を探して辺りを見回せば、屋根のてっぺんで六枚の黒翼をぴんと伸ばした女性の姿が目に止まった。アシュタール聖教神官長のセレナ・アシュフォードだ。
「何やってんだ、あのトリ女？」
空を見上げてシーズの知らない歌を口ずさむセレナは、天窓から上体を出した少年に気づいた様子はない。すっかり自分の世界に没頭しているようだ。
時折、強い北風が彼女の鳶色の髪を嬲り、長い外套の裾をはためかせる。
（……ったく、らしくもねぇことしてやがる）
シーズは内心で悪態をついた。空の彼方を見ながら、澄んだ表情で一心に歌う年上の女性の姿は、見知らぬ誰か別の人間のようで、少年の胸をひどく締めつけた。
まるで、彼女が風にさらわれて、そのままどこか遠くへ飛んで行ってしまいそうな――
（ちっ、馬鹿馬鹿しい！）
足元を気にしながら屋根のてっぺんまで上がったシーズは、胸の奥をよぎった切ない感覚を追い払うように、大声で彼女に呼びかけた。
「おい、セレナ！ てめー、そんなとこで何やってんだよ？」
「――――？」
歌声を止めたセレナは、まだぼうっとした様子で、シーズの方を不思議そうに見返してきた。その緑眼も、どこか焦点が合っていないように見える。
「まだ寝ぼけてんのか、このトリ女。やっぱあれか？ バカと煙は高いところがす――わぷっ!？」
調子に乗って言いつのる少年の口を、顔面に飛来した雪球が封じた。
「てめ、何しやがる!!」
「――それくらいで済んだんだから、感謝してよね。今度そんなこと言ったら、全翼人（ウィングル）への宣戦布告とみなして、空の上から真っ逆様に叩き落してあげるから」
片手に新たな雪玉を握って胸を張るセレナからは、既に先ほどの儚さとか透明感は跡形もなく消え去っている。雪の冷たさに顔をしかめながらも、いつも通りの彼女の様子に、シーズは内心で安堵した。
「だって、本当のことじゃん」
懲りずに軽口を叩くシーズを、再び雪玉が襲った。今度は余裕で避けて瞬間逆上女に視線を戻すと、少年を笑顔で見下ろす彼女の周囲に闇の精霊が大量に召喚されていた。ついでに、ばきぼきとさりげなく指を鳴らしていたりする。
「なにか言った、シーズ？」
「……いーや、別に」
「よろしい」
シーズが引きつった声で答えを返すと、セレナはあっさり機嫌を直して闇霊を送還した。つくづく大人げない女だと思う。
（こんなのでも、神官長なんだもんなぁ。そのうえ、昔は大神官候補だったんだっけ？ 信じらんねぇ）
彼女に当てつけるように、シーズは大きな溜め息をついた。帝都の教団にしろ、聖教にしろ、こんな女が大層な地位に就くようでは、先は知れているのかもしれない。
そんな少年の内心など知らぬげに、セレナは神官長の顔で聞いてきた。
「――それで、頼んどいた薪の片付けはもう終わったの？」
「あぁ、すぐに使わないやつは、全部物置に運び上げたぜ。おかげで、足腰ガタガタだけどな……」
言いながら、シーズは強張った腕を揉みほぐした。この分では、明日は全身筋肉痛確定だろう。
「お疲れ様。頑張ったわね、シーズ」
「そう言うあんたは、皆が働いてるってのにここでサボリかよ？ いいご身分だな」
幾分の棘を込めて、シーズは聞いた。
階下では今も、追儺（ついな）の儀式や貧民への炊き出しなど、今日の過越祭（すぎこしまつり）の準備を神官たちが続けている。それなのに、なんでも先頭に立ってやりたがるでしゃばりの神官長が、今日に限って屋根の上にひとり引っ込んでいるのは、どうにも解せなかった。何しろ、諸般の事情で規模を縮小したといっても、この祭は彼女が意気込んで準備をすすめてきた大事な儀式なのだ。
「……まぁね。一番偉い人間は、最後においしいところだけ持っていくのが仕事だ――なぁんて言われて、追い出されちゃった。肩書きなんてついてくると、邪魔っけで仕方ないわね」
おどけたふりで肩をすくめ、年若い神官長は小さく笑った。結構身勝手なところのある割に、彼女はそうしたひとからの厚意を無下に拒むのが苦手なのだった。
「ねぇ、シーズ。露店見に行こっか？ 仕事頑張ったご褒美にね」
不意に唐突なことを言い出したセレナに、シーズはうんざりした表情を向けた。
「はぁ？ 俺、ガキじゃねえんだぜ。そんなの、別に見たかねーよ。第一、俺は忙しいんだからな。暇人の誰かと違ってさ」
弟子に思わぬ口答えをされて、セレナは口許をひきつらせた。
「――う、うるさいわね。あ・た・し・が、行きたいの！ いいから、あんたも一緒に来なさいよ！」
「……結局それが本音かよ。だったら、てめーひとりで行けば？ 他人をだしに使うなよな」
シーズは冷ややかに言い放つと、神官長に背を向けた。バカ女のわがままに付き合わされるよりは、溜まった仕事を片付けている方がよっぽどいい。
いつもなら、ここでしつこく食い下がってくるセレナだが、今日はやけに簡単に引き下がってくれたようだった
それがかえって気になって、シーズは肩越しに彼女を振り返った。ひとり屋根の上に立ち尽くす六翼の女は、すっかり気落ちして悄然としているように見えた。
（……ちょっと言いすぎたか？）
さすがに気が咎めて引き返そうとしたところで、積もった雪に足を取られて、シーズは態勢を崩した。
「シーズ!!」
「――――!?」
セレナの鋭い叫びに反応した時には、もう遅かった。
衝撃を感じる暇も、体勢を立て直す余裕もなく、シーズの身体は傾斜のある屋根の上を転がり落ちていく。闇雲に手を伸ばしても、指先が雪で滑って、肝心の手がかりを掴む前にすっぽ抜けてしまう。
あっという間に、少年の軽い身体は煉瓦屋根の縁から投げ出されてしまった。雪の間から覗く石敷きの路面が、回転する視界の端に映る。恐慌の中で、あそこにぶつかったら死ぬということだけは漠然と理解できた。
（死ぬのは――嫌だ!!）
必死に手足をばたつかせる
が、それで落下速度が減るはずもない。
目の前を流れ去る石造りの壁面、耳元で鳴る風、大気を打つ力強い翼の羽撃き――
「……あ？」
気がつくと、シーズの身体は背後から回された手でしっかり抱えられて、空中で静止していた。
「ふぅ、どうにか間に合ったわね……」
首を後ろに捻じ曲げると、そこには心底ほっとした表情のセレナの顔があった。彼女の背では、六枚の優美な黒翼がふたりを空中に留めるためにばさばさと羽撃き続けている。
周囲を見回す。今の高さは、神殿の屋根よりずっと上だ。
黒い電光のような速さで追いすったセレナが、地面に激突寸前だった自分を掻っ攫って急上昇をかけたのだろうと、シーズはどうにか見当をつけた。
「あ……ありがと、セレナ」
助かったという安堵から、今更ながらにどっと汗が噴きだす。
「気をつけなさいよ、ほんとに。まだ死にたくなんかないでしょ？ いつでも――あたしが助けてあげられるわけじゃないんだからね」
セレナの腕にきゅっと力がこもり、シーズはいっそう彼女の身体に密着する形になった。
そうしてセレナの胸の中にいると、彼女の黒い法衣から漂ってくる、幾分刺激のある香りが感じられた。少し森の匂いに似ている。今日の儀式のため、数日かけて法衣に焚き込めた没薬の香りだ。
「おい、セレナ。そんなにくっつくんじゃねーよ」
セレナに抱きかかえられた状態で、シーズは居心地悪そうに身じろぎした。ある程度落ち着いてくると、今まで意識していなかった気恥ずかしさが湧きあがってくる。
「なーに照れてんだか。これくらい、どってことないじゃない。ねぇ？」
「こら、頬擦りすんじゃねー！」
ここぞとばかりに一方的な愛情表現を押し付けてくるセレナから逃れようと、現在の状況も忘れてシーズはもがいた。
「ちょっと、暴れないで。あ、下翼は触っちゃダメ！ バランスが……！」
崩れた体勢を立て直そうとセレナが手を広げたせいで、支えを失ったシーズの身体に再び落下感が戻ってきた。
慌てて腕を伸ばし、セレナの身体にしがみついて、どうにか死への墜落行から免れる。その時には、彼女の方も既に安定を取り戻していた。
「……はぁ、はぁ」
乱れた息を整えるシーズに、頭上から楽しげな声が降ってきた。
「嬉しいな、シーズの方から抱きついてくれるなんて」
「……へ？」
その一言で自分の状態に気付いたシーズは、顔を赤くした。咄嗟のこととはいえ、両腕を彼女の腰に回して、頭を下腹部に埋めるような態勢になってしまっている。
シーズは反射的に手を離しそうになったが、まだ空中にいることを思い出し、かろうじて自制した。
「……おいセレナ、早く下ろせよ！」
「ふふ。そんなに恥ずかしがらなくてもいいのに」
滑稽なほど焦るシーズを、セレナはにこにこしながら見下ろしている。
「バカ言ってねーで、さっさと足の着くところに下ろせっつってんだ、この勘違い女!!」
「じゃあさ、代わりにあたしの言うこと聞く？」
「聞く！ 何だって聞くから、早く下ろせ！」
「ふふ。約束よ。今言ったこと忘れないでね」
悪戯っぽく微笑むと、セレナは開いていた天窓の中に静かに下降した。屋根裏部屋の床が近づくと、シーズは下に着くのを待ちきれず、勝手に手を離して板床に飛び降りた。
足の下に硬い感触があるだけでどれほど安心できるものか、シーズは心から実感できた。何しろ、自分の身体を支えるのに誰かの力を借りずに済むのだから。
「あーあ、屋根の上を転がったから、すっかり雪まみれね。早く着替えていらっしゃい、シーズ。あたしは、表で待ってるから」
当たり前のように言うと、セレナはさっさと階下に続く梯子に向かった。
「……おい。てめー、なに言ってんだよ？」
「だからぁ、一緒に露店見に行こうって言ってんの。さっき約束したでしょ？ あたしの言うこと聞いてくれるって」
振り向いたセレナの顔は、弟子の察しの悪さに、少し機嫌が悪くなったように見えた。
「……まだ諦めてなかったのか」
がっくりと、シーズは肩を落とした。彼女が言い出したら聞かない性格なのは、少年はよく知っていた。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
「それでは、これで失礼します。よいお年を」
そう言って聖霊神殿の神官長室を辞すと、セレナは部屋の外で待っていたシーズのところに戻ってきた。
聖霊神殿の中では、さすがに黒衣のふたりは目立つ。彼女の帰りを待つ間、シーズは鳩の群れに迷い込んだ烏の気分を味わった。
「おせーぞ、セレナ」
「ごめーん。すっかり待たせちゃったわね。やー、聖典の解釈を議論してたら、すっかり長引いちゃって。聖霊神官って、どうしてこう頑固な人が多いのかしら？」
「そりゃ、てめーも同じだろ。――ったく、人を待たせてるってこと忘れてんじゃねーよ、この宗教バカ」
「だけど、これって大事なことなのよ。手を取り合ってとは言えないけど、異神崇拝と聖霊信仰が折り合って共存できる道を探してるんだから」
「それが出来るなら、ランスは聖霊崇拝の弾圧なんかしてねーだろ」
「そうなのよね。まだ先は長いわ」
重い吐息を漏らすと、セレナは先に立って神殿の外に向かった。途中で向けられてくる視線には、敵意や嫌悪はあっても、好意的なものはひとつもない。これも、ランス・ハミルトンが行った聖霊崇拝者弾圧政策のひとつの結果だ。
セレナは神殿を出たところで振り向くと、聖霊を祀る祭壇の方に向けて小さく祈りを捧げた。それが、礼拝所への入室を拒まれている彼女にできる精一杯のやり方だった。
人によっては、祈りを捧げるその姿を見て敬虔と称すのかもしれないが、シーズは単純に、誰彼構わず祈るのが彼女の趣味なのだろうと思っている。
「とにかく、予定の訪問先は全部回ったわね。これで、やっと露店めぐりが出来るわ」
祈りを終えたセレナが、重苦しい気分を吹き払うように明るく言った。年末の挨拶回りと称して出てきたおかげで、半日ほど各所を回る羽目になって、鬱憤がたまっているらしい。
神殿前の広場から門前通りにかけては、年越しの神事に集まった大勢の人々でごった返し、それらの参拝客を当てこんだ食べ物や飾り物の露店が、周囲に軒を連ねている。
「あーあ、聖教（うち）もこれくらい繁盛したらなぁ」
本気で羨ましそうに、セレナが呟いた。
「そう思うなら、年明け早々にいきなり邪教討伐なんてやらなきゃいいじゃん。いくら戦神を奉ってるからって、やりすぎだっての。あれのおかげで、ちゃんとした神事をやる暇がなくなったんだぜ」
「文句なら、黒槍騎士団に言ってよね。勝手に日程を決めたのは向こうなんだから」
セレナ自身、不満そうに言った。
現在、女帝ジュリアーヌ麾下の黒槍騎士団では、危険な魔薬を広める邪神教団の殲滅を目的に、戦闘の準備が進められている。それに乗じて聖教でも邪教を討伐し、少しでも周囲からの評価を高めようというのが、セレナの目論見だった。
しかし、ひとつ問題があった。作戦の決行日である。もたらされた情報によれば、決行の日は一月二日。年末年始の神事と並行して戦闘の準備を整えるほどの余裕は、残念ながら聖教にはなく、セレナが思い描いていた年越しの儀式は、結果としてその多くを中止にせざるを得なくなったのである。
「なぁセレナ。俺も、邪教討伐につれてってくれよ」
「駄目だって何度も言ってるでしょ。アシュタール神のご加護もないただの子どもなんて、戦場じゃ足手まといにしかならないもの」
「俺、ガキじゃねーって」
「そう言ううちは、まだまだ子どもよ」
弟子の抗議をあっさり受け流すと、セレナはさっさと興味を周囲の露店に切り替えた。
「――さて、まずは名物料理の屋台から回りたいけど、シーズのお勧めって何がある？」
「そうだな。揚げパンとか肉饅頭とか、腹が膨れるものならペルネ風の串焼き（ケバブー）なんてのもあるけど」
「あたし、甘いものがいいなぁ」
「……はいはい。んじゃ、あそこの水飴屋から回ろっか」
人ごみの間を縫って、ふたりは露天を見て歩いた。無邪気にはしゃいでいるのがセレナの方で、小さい時に何度も来ているシーズがいろいろ解説してやるという構図は、傍目には少し変わった姉弟と見られているかもしれない。
（ま、それでもいっか）
心底楽しそうなセレナを見て、少年はそう思った。
露店を一回りして腹を拵えたふたりは、休憩所のようになっている噴水の縁に、他の人々と同じように腰を下ろした。
「――あ、また降ってきた」
セレナが差し出した手に、ひとひらの雪片が舞い降りた。
冷たく凍った 白い大地にも
いつかは 氷の溶ける日が やってくる
重たい灰色の 明けない雪空も
いつかは 陽光射す日が やってくる
セレナの口をついて流れ出る、聖らかな、そしてどこか寂しげな歌声が、隣に座るシーズの耳にだけかろうじて届いた。誰に聞かせるためでもなく、内に秘めたものが抑えきれなくなったような、そんな歌声。
「それ、何の歌？」
「『ツンドラの唄』っていうの。ギルガルドの童謡よ。向こうにいた時は、あたしもよく歌ってたっけ」
「セレナ、ひょっとして……ギルガルドに帰りたいとか思ってるの？」
問い掛けてから、相手の内心に踏み込みすぎた気がして、シーズは少し後悔した。ばつが悪くなってうつむく少年に、セレナは曖昧な微笑で問い返した。
「……そう見えるかな？」
「違うのか？ 本当は、ずっとギルガルドにいたかったんじゃないのかよ。次の大神官候補で、周りからそういう風に扱われてたんだろ。エウリアに流れて来たのだって、ランスに睨まれて向こうにいられなくなったからでさ」
「――否定はしないわ。帰れるものなら帰りたいって、そう思うことはあるから」
「セレナ!?」
懐古の念を抱えていることを率直に認めたセレナに、シーズは不信の粒子が混じった険しい視線を向けた。少年にとって、帝都のアシュタール教団は、彼から家族を奪った戦乱の原因として未だに憎悪の対象とすべきものだった。
「怖い顔しないでよ、シーズ。帝都の教団が居心地のいいところだったのは、変えようのない事実だもの。別に特別扱いされたことはないけど、一緒に歩める仲間がいて、信仰を深めるための理想的な環境があった。これで、あたしがランス猊下の掲げる理想に目を瞑ってさえいられたら、何の問題もなかったんだけどね」
それを聞いて、シーズは警戒心を解いた。
ルタニア教区大司教にして帝都神殿大神官であるランス・ハミルトンは、戦争のための戦争を望み、屍山血河の楽園を招来するべく活動している。血みどろの戦場でこそ力は磨かれると、彼は信じているのだ。それは、平凡な日常にこそ鍛練の場があると考えるセレナの思想とは、絶対に相容れない。
「……あー、今言ったこと、誰にも言わないでね。雪を見て、つい昔が懐かしくなっただけだから」
セレナは明らかに喋りすぎたことを悔やむ表情で、シーズに口止めした。確かに、聖教の信徒に聞かれたら、大いに信仰心に影響する内容である。
「わーってるよ。たく、もう少し考えて喋れよな」
何度も念押しするセレナに、不機嫌を装ってシーズは頷いてやった。こうした失言も、彼女が気を許してくれているからだと思えば、そう悪い気はしない。
「いつか、帝都に帰れるといいな」
そんな言葉が、自然とシーズの口をついて出た。セレナがひたっているのは単なる過去への感傷だと分かったし、それならシーズにも理解できないことはない。
「無理よ。猊下の意思に真っ向から刃向かったんだもの。戻ったところで、反逆者として拷問の上処刑されるだけだわ」
「そうじゃねーよ。帝都に乗り込んで、教団の連中を追い出しちまえつってんだ」
少年の過激な意見に、セレナは一瞬ぽかんとして、それから弾けるように笑い出した。
「なんだよ。俺が言ったこと、そんなにおかしいかよ？」
「うぅん、そうじゃない。ランス猊下たちと直接戦うなんて、考えたこともなかったから。――そうね、いつかはそのこととも向き合わなくちゃ」
いつしか真剣に考え込んでいるセレナを見るうちに、シーズの中でも今まで考え続けていた一つの決意がまとまっていった。
「帝都の連中とやり合う時には、俺も混ぜてくれよな。足手まといはいらないって言うんなら、戦えるようになるし、アシュタールの加護をもらってやってもいいから」
それを聞いて、セレナは喜ぶより先に首をかしげたが、それも無理はなかった。シーズは今まで、アシュタールの神官戦士となって異神の加護を受け入れるかどうかの選択を、ずっと保留してきたのだから。
「そこまで言うのは、家族の仇を取りたいから？」
「それもあるけど……」
シーズは口篭もった。ちらちらと視線を向けるものの、どうにも本人を前にしては言いづらい。
「……ひょっとして、あたしに恩を返すため？ だったら、無理しないでいいのよ。確かに、あなたに異端神官になってほしいとは思ってるけど、無理強いはしたくないもの。他になりたいものがあるなら応援するし」
「そんなんじゃねぇよ!! あんたひとりで放っとくと、危なっかしくて落ち着いてられねーんだ。言っとくけど、心配とかそんなんじゃねーからな！ いらいらするのが嫌なだけで、あんたのためってわけじゃ……」
「もういいわよ。あなたの望みはよく分かったから」
苦笑すると、言葉を連ね続ける少年を優しく引き寄せ、セレナは具現させた黒翼でその身体を包み込んでやった。
形の良い白い手で、慈愛を込めて彼の黒髪を撫でる。
「ガキ扱いすんなよ……」
シーズは憮然としながらも、おとなしくされるがままになっている。
「帰ったら、加護くれるよな？ そしたら、邪教討伐にも連れてってくれるだろ、セレナ？」
珍しく、甘えるような声をシーズは出した。幼い頃抱かれた母親の腕の感触が、ふと思い出された。
「アシュタール神のご加護は、誰かにもらうものじゃなくて、自分で見つけるものよ。あなたなら、今まで通りにしてれば、そう遠くないうちに自分で手に入れられると思ってたけど」
「な、なんだよそれぇっ！」
甘やかな空気をはね散らして食って掛かるシーズの額を、セレナは指で弾いた。
「あてっ!? ――てめぇ、何しやがる！」
「うふふ」
シーズの抗議を華やいだ笑みで受け流すと、セレナは彼から身をかわすようにして距離を取った。
「世の中、それほど甘くないの」
腰に手を当てて立つセレナの背後で、時を告げる聖霊神殿の鐘が軽やかに鳴り始めた。
「――と、もうこんな時間か。そろそろ戻らないと、みんな心配してるでしょうね」
雪の舞う空に向けて、セレナは六枚の黒翼を大きく広げた。当然、通行の邪魔になっているが、本人は気にしていないらしい。
「おい、俺を置いてく気かよ!?」
「走れば間にあうわよ。分かってると思うけど、儀式に遅刻したら、罰として仕事が増えるから」
笑いを含んだ声を弟子に投げかけながら、セレナは緩やかに夜空へ上ってゆく。
シーズの顔が引きつった。神官長は、少なくともこういう時に冗談を言う人間ではなかった。
「この大バカ女――――っ!!」
大晦日の空に消えゆく身勝手な神官長に罵声を叩きつけ、シーズは全力疾走を開始した。
■キャスティング・リスト
セレナ･アシュフォード 女/20歳/ウィングル/159ｃｍ/48ｋｇ
六枚の黒翼を持つ、アシュタール聖教神官長。実際の出生地は屑鉄都市アルンヘムであるが、彼女が故郷と呼ぶのは、奴隷の境遇から抜け出して辿り付いた北方の帝都ギル＝ガルス＝ドスである。
この二日後に行われた、邪神教団討伐戦において、六翼のうち二枚を喪失する。
シーズ･パヴェル(ＮＰＣ？) 男/12歳/ウィザード/133ｃｍ/35ｋｇ
アシュタール聖教の神官見習い兼雑用係。セレナとは、師弟というより姉弟のような関係。入信以来、アシュタールの加護を受けるかどうか悩んでいたが、「セレナを放っておけない」という理由により、加護を受け入れることを決意する。
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