光 彩 陸 離

　温かな風に乗って舞う色とりどりの花弁に目を奪われて、ぼくは、つい足をとめた。
　赤、青、黄色に紫。周囲を満たす色彩は千変万化、一瞬さえも同じ色を留めることはない。世界は無限の色に彩られて、この世のものとは思われないほど美しかった。
　目眩いがしそうだった。ともすれば、自分がどこにいるのか忘れてしまいそうだ。
　ここは『桃園』。世界中から、人々の心の『歪み』が集まるところ。そして、舞い散る桃の花弁は、そのひとつひとつが、人々の抱いた強い『思い』。
　仲間の中にいた異分子によって氷の棺に封じ込められた圭子さんを残し、ぼくは『桃園』守護を担う砦のひとつを目指していた。残念だけど、ぼくには――というか、ぼくの使役妖魔たちには、圭子さんを助ける力はない。だから、圭子さんのことは他のみんなに任せて、ぼくは自分にできることをするつもりだった。
　この異界を制御する霊玉を一つでも多く確保できれば、それだけ圭子さんが復活する助けになるはず。
　自分の中で目的を再確認すると、桃の花舞う『桃園』を、ぼくはまた歩き出した。
　行き先は、『桃園』の中でも最も『歪み』が集まる場所。
　強く望めばどこにでも行ける『桃園』では、地形を把握する必要がない。ぼくは、負気に似た『歪み』の気配を頼りに、その流れをひたすら遡って進んだ。
　赤、青、黄色に紫、あらゆる色の花霞。
『歪み』が濃い場所に近づくにつれて、風に踊る桃の花弁も、その密度を増していた。いや、花弁の変化は、量だけじゃない。それぞれの色彩も、より原色に近い、けばけばしい色になっていた。
　ぼくの周りで、虹色の風が巻く。いまやぼくは、虹の渦に飲み込まれているようだった。
『歪み』の花弁が触れ合って起きる、耳鳴りのような音が、ぼくの理性を少しずつ侵蝕していく。
　それまで気にも留めなかった、知らない誰かの歪んだ『思い』が、一斉にぼくの中に押し入ってくる。息が詰まる。これは――
　真紅の――これは『憤怒』。でも、いくら腹を立てたって、ぼくの言うことなんか誰も聞いてくれない。だから、いらない。
　橙黄――これは『諦念』。でも、ぼくは何かを望んだことはない。だから、こんなもの意味がない。
　鬱金――『愚劣』。ぼくは誰かに言われるままに動くだけ。評価を下されるべきなのは、ぼくじゃない。
　翠緑――『未熟』。最初からこういうものとして、ぼくは創られた。成長の余地なんて、どこにもない。
　群青――『後悔』。振り返る過去なんて、元からない。
　青藍――『孤独』。ずっと誰も側にいなければ、そんなもの感じることもない。
　紫紺――『高慢』。ぼくはただ、設計図どおりに創られただけ。誇るものなんて何もない。
　入り込んでくる『歪み』を、ぼくは頑なに拒絶する。
　歪むべきものが初めからないぼくには、『歪み』なんて関係ない。用はないんだ。だから――
「目障りな、誰かの『思い』ども。消えてしまえっ！」
　湧きあがる苛立ちをぶつけるように、万色の渦の中でぼくは叫んだ。
（――物質の存在しない完全な真空すら、強大な重力場の中では歪む。時空ごとな。これは、一般相対性理論の初歩だったよな？）
　その声が虹の渦の向こうから聞こえたとたん、ぼくの身体は自分の制御から離れて勝手に震え出した。
　そう、そいつは、声だけでぼくの心を粉々に砕いてしまう。記憶から消したいとどれだけ願っても、しぶとく絡み付いてくる、ぼくの消せない過去。
　――王礼苑（ウォン・リーユァン）。
　ぼくらＣＰＣＳシリーズを開発した、元エレクトラ・エンタープライズの優秀な主任研究員。そして、エレクトラ社崩壊後にぼくを連れ出し、過酷な仕事を押し付けて徹底的に搾取した――悪魔だ。
　だけど、どうして今頃？　あいつは、一年近くも前に、圭子さんに焼き殺されたんだ。それも、ぼくの目の前で。だから、絶対生きているはずがないのに！
（久しぶりだな。所有者（オーナー）が帰ってきたらもっと嬉しそうな顔をするよう調教（プログラム）しといたはずだが、もう忘れたのか？）
　嘲笑におびえるぼくの側を、白い花弁がかすめて流れ去った。極彩色の花弁の渦に混じっていた白が集まって、目の前で独立した渦になり、白衣を着た人間の姿をとる。
「う……あぁ……」
　ぼくは喘いだ。畏怖に打たれて、声にならない。
（会いたかったぜ、ＣＰＣＳ−Ｅ３）
　痩せた長身の上に着込んだ白衣。神経質な笑みをたたえた口元。そして何より、自分が絶対的な支配者であることを微塵も疑っていない、その尊大な態度。
　記憶の中の姿と、少しも変わっていない。
　……間違いない。あの男、王だ。
（『歪み』なんて関係ない、か――。しばらく見ないうちに、大層な事言うようになったじゃないか。俺の言うとおりの事しか出来なかった、お前がな）
「……そんな」
　逃げたかった。怖くて、怖くて、目の前の悪魔から、ただただ走って逃げたかった。なのに、竦んだ身体は凍ったように固まってしまって、ぴくりとも動かない。本当に、蛇に睨まれた蛙そのものだ。
（なあ、Ｅ３。いつも腹の底に、やり場のない『憤怒』を抱え込んでいたんじゃないのか？　望む前から諦めて、骨の髄まで『諦念』に染まってたんじゃなかったのか？　他者の言葉に盲従するのを、『愚劣』とは言わないかね？　向上心の致命的な欠如、なるほどそれは『未熟』以前の問題だな。生まれたことを、ずっと『後悔』し続けているんだろう？　『孤独』という逃げ場所の、居心地はどうだい？　自分の『高慢』さを自覚しろよ、そうしなければ自己が保てないくせに。何せ、失敗作の低劣な模造品だものなあ）
　こちらの神経に障る声で、王がぼくの心を深くえぐる。そのしゃがれた声も、奇矯な笑い方も、ぼくの記憶にある通りだった。あまりにも、変わっていなさ過ぎた。
（おや、少しは大脳新皮質を使うようになったじゃないか）
　王が口元を大きく歪めた。
　ぼくは確信した。本物の王は、読心能力など持っていなかった。そう、今ぼくの前で笑っているこいつは、王の姿をした、ただの幻。
「……う、うるさい！　誰の仕業か知らないけど、そんな幻くらいでぼくが怖がると思ってるのか！」
（ふん、30点。落第だ）
　勇気を振り絞ったぼくの恫喝を、幻影の王は鼻で笑った。くそーっ。思い知らせてやる！
「心魂機関」に搭載された「ＣＰＣＳ（並列妖魔制御機構）」を起動させ、Ｊドライブに圧縮保存されたｃｒｃファイルを解凍、具現する使役妖魔に攻撃の指示を――
　ぼくにだけ聞こえる鋭い警告音が、もう意識することすらしなくなった一連の処理を中断させた。
（エラー。不適切な処理が実行されました。基幹プログラム第三原則に抵触しています。システムの緊急停止コードを実行します。Ｊドライブとの界面接続を遮断します。再試行には、主任研究員以上のＩＤおよびパスワードが必要です。以後、システムはスタンバイモードに移行します）
　そんな!?　ＣＰＣＳ緊急停止コード？
　王から自由になって以来感じなくなっていた、ひどい無力感が戻ってきた。まさか、この王は本当に――？
（ハハハハ。相変わらず低能だな、Ｅ３。緊急停止コードが作動するのは、第一原則違反――産みの親の研究員に反抗したときだけじゃない。今のは、自己破壊の禁止を定めた第三原則に引っかかったんだ）
「自己……破壊？　どうして……？」
（分からないか？　考えても見ろ。何故俺は、的確にお前の心を読み取れる？　先に言っておくが、読心術なんてオチはなしだ。くそったれなアレイスの小僧じゃないんだからな。――答えは簡単だ。俺は、お前の一部なんだよ）
「嘘だ」
　王のおぞましい言葉を、ぼくは即座に否定した。あれが、ぼくの一部だって？　そんなこと、考えただけで鳥肌が立つ。
（否定したところで無駄なことさ。事実だからな。俺は、お前が持つ『歪み』の象徴。お前の中の『歪み』が、『王礼苑』という人格に仮託されて、この世界に投影されているってわけだ）
　なるほど、この『王』が記憶の中の姿と違わないのも、当たり前だ。ぼくの思う王のイメージが元になっているんだから。
「『歪み』の象徴……」
　ぼくがそう呟くと、『王』の姿がいっそう実体感を増した気がした。
（お前が、俺のことを理解したからだ。その調子で、俺を受け入れろ。そうすれば、俺は完全に実体化し、お前の上に君臨してやれる）
『王』が、とんでもないことを言ってくる。
「冗談じゃない。『歪み』なんて、ぼくは持ってない。だから、お前がぼくの『歪み』なはずはない！」
（まだそんなことを言っているのか、Ｅ３。自分の中にあるものから、目をそらすなよ。もっとも、完全に歪みきっていれば、それが正常だと思い込むのかもしれないがな）
　不意に、『王』の姿がほどけた。無数の白い花弁に戻って、ぼくの周りで渦を巻く。
　花弁が、服の下に入り込んできた。肌の上を無数の指で弄られるような、おぞましい蟻走感。
「……あ、あぁっ」
　悪夢の、フラッシュバック。身体に刻み込まれた苦痛と屈辱が、五感にオートリバースされる。
　ぼくは膝をついた。吐き気がした。全身がばらばらになりそうだった。何もかも、壊してしまいたかった。
　虹色の渦さえ、もう見えない。
　何かが、限界を超えたのだろう。どうやらぼくは、気を失ったらしい。
　――気が付くと、『王』がまた実体化していて、やつは蔑んだ目で、倒れたぼくを見下ろしていた。本当に、記憶の中のあの悪魔にそっくりだった。
（どうだ、思い出したか、あの恍惚の日々を）
　ええ、お陰様で。真っ白い人工樹脂の研究室と感覚遮断タンクベッドだけが全てだった、砂のような毎日すら楽園に思えた、あの地獄をはっきりと。
（さあ、『歪み』に身を委ねろ。そして、早く俺を実体化させるんだ。そうすれば、お前を完全に支配し、全身がずたずたになるまで責め苛み、心いくまで嬲って犯して壊してやれる。お前の望むとおりに、な）
「……変質者」
　ぼくが息も絶え絶えに吐き捨てると、『王』は厭味ったらしい声で笑った。
（ふん。忘れるなよ。俺は、お前の『歪み』から生まれたんだからな。全ては、お前が望んでいることさ。意識している、いないにかかわらずな）
　ぼくは、身を守るように身体を丸めた。本能的な恐怖の前では、その行動の意味なんか考える暇はなかった。
（いいかげん、意地を張るのを止めて、俺の手の中に戻ってこい。あんなイッちまった小娘より、俺の方がずっといいってことを、思い知らせてやる）
　その一言が、ぼくの心をすっと冷ました。ぼくは、どれだけ貶められてもいい。だけど、圭子さんを汚すような言い方は許せなかった。
　水晶を弾くような音が、どこかから聞こえた気がした。不思議な暖かさが身体に染み透り、恐怖も嫌悪も波が引くように消えていく。ぼくは――今まで何をしていたんだろう？
「圭子さんのことを、悪く言うな」
　ぼくはゆっくりと立ち上がり、鼻白む『王』に対峙した。
（おいおい、俺は本当のことをいったまでだぜ。あのイカレ女より、俺の方がずっとうまくお前を支配してやれる）
「当たり前だよね。だって、あなたはぼくなんだもの。だったら、そんなものは、ただの自己満足じゃないか」
（それが悪いのか、Ｅ３？　誰でもいいから、支配して欲しいんだろう？　魂ごと）
「違うよ。ぼくは、誰かの役に立ちたいんだ」
　ぼくが自分を取り戻すにつれて、目の前の『王』はどんどん薄っぺらくなっていく。
「本当のあなたから逃げたくなった理由も――ようやく分かりました。あなたは、ぼくを道具として創ったのに、ちゃんと使おうとはしてくれなかった。ぼくを傷つけて、壊して、それで楽しんでたんでしょう？」
　淡々と、ぼくは語る。ぼくの『歪み』が生み出した『王』ではなく、かつての王礼苑その人に。
「圭子さんは、自分勝手で乱暴で気が短くて何が何だかよく分からない人だけど、それでもぼくをちゃんと使ってくれます。分かりますか？　道具だって、持ち主を選びたいんです。道具には道具の、意地があるんですよ！」
　ぼくは、やつに向かって一歩踏み出した。
　王の姿をした『歪み』は、既に実体を保つことも出来なくなっていた。虹の渦の中に浮かぶ白い姿は、まるで出来の悪いホログラム。
「さあ、あなたもぼくの中に帰るんだ。受け入れてあげるから。でもそれは、『歪み』に溺れるわけじゃない。胸の奥で、飼いならしてあげる。それでいいだろう？　ぼくの『歪み』――『服従』よ」
　そう、ぼくは受け入れた。自分が歪んでいるという事実を。どうせ、この世には、歪んでいないものなんてありはしないんだもの。
（ふん、好きにしろ。どうせ長い付き合いだからな。そのうち、ちゃんとお前を支配してやるよ）
　捨て台詞とともに、白い靄は溶けて消えた。多分、ぼくの中に戻ったんだろう。勝手にしろ。ぼくはもう、盲目的に『服従』するのはごめんだ。
「さて、残るはこれか……」
　ぼくは、周囲を包む『歪み』の渦を、ぐるりと見回した。
　赤、青、黄色に紫。あらゆる色が作り出す、巨大な虹の万華鏡。
　触れ合う『歪み』が干渉しあっていまだに耳障りな音を立てているけど、ぼくはもうその『思い』に引きずられることはなかった。……だけど、ものすごく邪魔だとは思う。
「リュミエ、ひとつ残らず消し去って」
　Ｊドライブから呼び出した液状の使役妖魔リュミエが、「浄化」の霊弾をシャワーのように振り撒いた。
　人々の歪んだ『思い』が、洗い流されて消えていく。
　虹の渦から解放されたぼくは、辺りの様子を注意深く確認した。見晴るかせば、遠くには霊玉を安置した砦も見える。
　ここからは、飛んでいこう。
「出てきて、ダーバルジュ」
　岩石で出来た甲冑魚という姿の使役妖魔にまたがって、ぼくは『桃園』の空に舞い上がった。眼下には、夢のように綺麗な桃花の連なりが、どこまでも、どこまでも、果てしなく続く。
　ふと、思った。『歪み』に屈服しそうになったとき流れてきた、あの暖かな感覚はなんだろう？　圭子さんを悪く言われて反駁しようとしたときに、そのための力を与えてくれた不思議なエネルギー。
　もしかして、圭子さん？　――はは、まさかね。
　ぼくは苦笑すると、霊玉の守護者が待つ前方の砦に向き直った。余計なことを考えている暇はない。戦いは、これからだもの。