北半球は夏真っ盛りだと言いながら、日本海を渡って吹いてくる北西の風は、セティ・シューバには肌寒くさえあった。
以前にその一部を突き崩されたとはいえ、北海道の大部分を未だ包み込む乳白色の霧――結界兵器『アトラスの柱』が発生させている障壁が陽光を遮っているために、道内の気温は夏とは思えないほど低い。
もちろん、農業や畜産などの第一次産業への被害は計り知れないほど大きく、お役所の偉い人たちは頭を抱えているそうだ。セティはそんな偉い人のことは知らないが、美味しいものが食べられなくなるのは困ると思う。
風が強い。
周囲は防風林も何もない吹きさらしで、海からの強い風が、遠く南を望むセティの金髪を好き放題になぶる。
風除けが欲しいところだったが、残念ながらそうはいかない。
セティは今、遥か沖合いの『アトラスの柱』本体に攻撃を加えるための、砲戦陣地にいるからだ。もっとも、陣地と言っても名ばかりで、海辺の土地を整地して周囲の障害物を取り払った、殺風景な更地に過ぎない。遠くには自衛隊北部特務連隊からの出向組が詰めている急ごしらえの官舎もあり、どことなく休校した学校の校庭を連想させる。
セティが立っているのは、太さが彼女の胴体ほどもある筒の上だった。七四式特大型トラックの荷台に設置された、八八式地対艦ミサイルという「ソービヒン」の発射装置だ。それが三本ずつ二列で六本、トラックの荷台に横になっているが、実際に飛翔体が装着されるのはひとつだけだった。
そこから射出される飛翔体を、ＤＢＭ――Ｄバスターミサイルという。正式には霊力感応爆弾といって、負気に反応して爆発的な破壊力を生み出すという、自衛隊開発の新兵器だそうだ。
詳しい仕組みをセティは知らないし、興味も無い。単純に「すごい爆弾」なのだろうと思っている。
セティは、その「すごい爆弾」が『アトラスの柱』破壊作戦に投入されるという噂を聞いて砲手に名乗り出たのだが、世の中はそれほど甘くなかった。彼女がリニア・レールガン『仔竜』を持ち出すまでもなく、北部特務連隊は自前で弾頭の輸送手段を開発していたのだ。
とはいえ、目標の性質上誘導装置がカットされたＤＢＭには、弾道兵器の扱いに慣れた人間がどちらにしろ必要で、セティは自分がいかに遠距離砲撃が得意かを必死にアピールして、何とか砲手の席に滑り込むことができた。
――自分が思っていたのに比べて、報酬は二桁ほど低かったが。
「よお、嬢ちゃん。そんなところで何やってんだ？」
「ほへ……？ あ、サンサのおいちゃん、おはよー」
足元に視線を落とすと、工具箱を持った顔見知りの技術士官が地面から自分を見上げていた。中年に差しかかった丸っこい日本人で、名前はワタリーだったか、ワトルーだったか、いまだに覚えられない。本人も正しい名前を教え込むのを諦めたらしく、「三佐」と呼べと言われている。
遠くを見ているうちに、定時の点検の時刻になっていたようだ。海の側だけに、潮風で傷むのを防ぐには、念入りな手入れが欠かせなかった。
「おはよーはいいけどな、お前もうちょっと――えっと、何てんだ、慎みってやつか。それを覚えた方がいいぞ。おれにサービスしたって始まらんだろうが」
「へ……？ ツツシミって何？」
大きな目をぱちくり。難しい日本語は、どうもよく分からない。
しょうがねーなと言いたげな渋い顔で、三佐が服の裾を指差した。
風をはらんで舞い踊るシャツは、下から見れば遮るものは何もなくて――
「うきゃあっ!?」
両腕で体を抱くようにシャツを押さえて、セティはその場に腰を落とした。
「見た？ 見たでしょ!? このスケベ!! 見物代よこせ！」
顔を真っ赤にして怒鳴るセティに、三佐はつまらなそうに言い返す。
「……あのな。うちの娘のより真っ平らな胸見たって、面白くも何ともねーんだよ。そんなんで、何で金取られなきゃならねーんだ」
「うっさい！ イシャリョーをヨーキューする！」
シャツの裾をジーンズに押し込みながら、こういうときに使うといいと言われた言葉を三佐にぶつけた。
「お前、その言葉の意味、言ってみろ」
「え？ ……えっと、ケガとか病気のときにお医者さんに払うお金……かな？」
「俺は怪我も病気もねーし、お前は医者じゃねーな。だから払う必要なし。以上」
「え？ え？」
思わぬ反論にセティが混乱している間にも、三佐は取り出した工具で誘導弾発射装置の点検を始めていた。
「大体、『慰謝料』なんて言葉、どこで覚えてくるんだ、お前は？」
「ん？ えっとね。彼女さんをオヤジにあてがって、ホテルに入る前に突きつけてやるとお金がもらえるんだって、友達が言ってた。――あれ？ でもこれだとお医者とも病院とも関係ないし？」
真剣に考え込むセティに、三佐は何かをこらえながら言った。
「……美人局じゃねーか、それ。縁を切れ。そんな性質の悪い連中」
「えー？ みんないい人ばっかりだよ」
発射装置の縁に腰掛けて足をぶらぶらさせながら、不当な言われ方に抗議した。
「……まー、いいけどな」
三佐もどうやら分かってくれたらしいと、満足する。なんとなく、匙を投げられた気もするけれど。
セティはしばらく三佐の整備作業を見ていたが、すぐに飽きてきて、視線をまた南に転じた。
「函館の戦況が気になるかい？」
「ん。ちょっとね。おいちゃんは、何か知ってる？」
「いや、知らんね。俺みたいな下っ端のところまでは、そういったことはなかなか届かないものさ」
「そっか」
初めから情報を期待していなかったので、別段落胆したりはしない。ただ、情勢を知りたいという思いは、かえって大きくなっていく。
「嬢ちゃんは、どっちの側だったかな？」
人形国家『独立共同体』の内部には、ふたつの派閥があった。穏健派と呼ばれる『И１』ニコラス大佐の主流派と、強硬派――先のクーデターの際に『救世会議』を名乗った、『И２』ディケンズ中佐を中心とする一派だ。自衛隊に降伏を表明した穏健派に対して、強硬派は徹底抗戦を主張して、今でも函館で戦いを続けている。
「あたしは、ただの雇われ者だよ。どっちの派閥かなんて関係ないもん」
「だけど、知り合いくらいいるだろ」
「まあね。それが、勝ち目がない方に付くような、バカな人達ばっかりでさー。付き合ってられないよ、ほんとに」
穏健派・自衛隊連合と『救世会議』の戦いは、最初から『救世会議』の側に勝利はないと見られていた。『独立共同体』内の知人はほとんどが強硬派だったが、彼らに付き合って生命まで捨てる気は、セティにはさらさらなかった。
「誰だって、自分が一番大事なのにね。何でわざわざ死にに行くんだろう？ あたしは、いくらお金積まれても、死ぬのは……やだな」
セティは、小さく呟いた。
「嬢ちゃんは、大事なのは自分だけかい？」
「……うん。それと、家族のみんなも、同じくらい大事かな」
「その誰かが死にそうになったら、どうする？」
「助けるよ。……あたしにできるかどうかは分からなくても、助けようとすると思う」
セティは実際に、似た状況に置かれたことがあった。『黙示録事件』末期、姉のクァトレッタが機体に致命的な損傷を負って、彼女達のところに戻ってきたのだ。だが、その時のセティには、右腕の発電機関から電力を供給することの他に、何もできなかった。姉を助けようと必死な兄達の手助けができなかったのはとても悔しかったけど、三年経った今でも、何かができるようになったとは思えないのは少し辛い。
「『救世会議』の連中も、似たようなものなんだろうぜ。ディケンズや仲間を放って置けないんだろ。ま、俺が言うこっちゃねぇが」
「そういうものかな。じゃあさ、みんなを見捨てちゃったあたしは、薄情な人間？」
「連中のことを気にかけてるなら、薄情ってこたねえだろ。薄情者ってのはな、目の前で溺れてる人間を、見て見ぬ振りして笑ってられる人間のことだ。――嬢ちゃんの友達が無事だといいな、なんてことは俺は言えねえが、そう悩むな。みんなそれぞれ、背負ってるものが違うんだからよ。大切な誰か、手放したくない何か、譲れない信念、人によっては神様なんてものもあるだろうな。困るのは、その一番大切なものが相容れなかった場合だ。普通は話し合って適当なところで折り合うものなんだが、どうしてもうまくいかなきゃ、離れて暮らすか、力ずくで相手に言い分を押し付けるしかないわなあ。『救世会議』は、そこまでいっちまったわけだが」
「あたしもハコダテに行けばよかったかなあ。みんなを止めに……」
「できるか、そんなことが？」
セティは静かに首を横に振った。
「ううん、きっとムリ。説得できる自信なんてないし、照準の向こうに知った顔があったらきっと撃てない」
「だったら、いいじゃねえか。ここで無事を祈ってるだけでもさ」
「うん、そだね。神様はあたしがお祈りしたら、ちゃんと聞いてくれるかなあ？」
不安な思いが口からこぼれた。昔から神様に気にいられるいい子ではなかったから、いくらお祈りしても神様は聞き届けてくれないかもしれない。
「さあな。俺は神様じゃねえから分からねえが、こういう時はとりあえず信じとくもんだろ」
「……うん。そうだね」
気休めの嘘でなく、自分にも今できることを。ワタリーのおいちゃんの掛けてくれた言葉が、素直に嬉しかった。